駈込み訴え (太宰治)
先日, ダ・ヴィンチ・コードに関するエントリ を書いた.ダ・ヴィンチ・コードでは,イエス・キリストとマグダラのマリアに対するある説をベースに,物語が展開していく.それで,太宰治の小説「駈込み訴え」を思い出したので,今回はそれについて書いてみたい(ちなみに,「駆込み訴え」ではなく「駈込み訴え」が正しい作品名のようだ(「駈」は常用外漢字).恥ずかしいことに,今までずっと勘違いしていた). この小説は,ある男の堰を切ったような独白から始まる. 申し上げます.申し上げます.旦那さま.あの人は,酷い.酷い.はい.厭な奴です.悪い人です.ああ.我慢ならない.生かして置けねえ. はい,はい.落ちついて申し上げます.あの人を,生かして置いてはなりません.世の中の仇です.はい,何もかも,すっかり,全部,申し上げます.私は,あの人の居所を知っています.すぐに御案内申します.ずたずたに切りさいなんで,殺して下さい.あの人は,私の師です.主です. 冒頭からの,奔流のような感情の吐露に,読者は圧倒され,引き込まれていく.読み進めていくうちに明らかになるのだが,ここでいう「主」とは,イエス・キリストのことである.そして,イエスを切り刻んで殺してくれと訴えている男はもちろん,ユダである.聖書にあらわれるユダは何人かいるが,ここでのユダは,イスカリオテのユダ,銀貨三十枚でイエスを売ったユダである. 「駈込み訴え」は,祭司長たちにイエスを売る場面における,ユダの独白のみで綴られる.だが,そこで語られるユダの感情は,決して単純なものではない.イエスに対する複雑な思い,愚かな弟子たちに対する憎悪,マグダラのマリアに対する嫉妬.特に,イエスに対する感情は,アンビバレントな愛憎と簡単に言い切ることはできない.イエスに対する愛情,憧憬,賛美,憎悪,嘲笑,憤怒,それらがまさしく激情のるつぼと化して読者の眼前に迫り来るのである. なんであの人が,イスラエルの王なものか.馬鹿な弟子どもは,あの人を神の御子だと信じていて,そうして神の国の福音とかいうものを,あの人から伝え聞いては,浅間しくも,欣喜雀躍している.今にがっかりするのが,私にはわかっています. ・・・ あの人は嘘つきだ.言うこと言うこと,一から十まで出鱈目だ.私はてんで信じていない.けれども私は,あの人の美しさだけは信じている.あんな美しい人はこの世に無い...