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君だけに

前のエントリ (「 愛の試み 」)を書いていて,ある曲を思い出した.少年隊の「君だけに」という曲である.正直言って,気恥ずかしい気もするが,この曲について少しだけ書いてみたい. Wikipedia の記述によれば ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E9%9A%8A ),この曲は,1987年の曲である.この曲が好きな人がいて,それでよく覚えている.もう18年前か.感慨深い. 歌詞もよく覚えている.ここでは歌詞は引用しないが. 福永武彦の 「愛の試み」 を初めて読んだときも,この曲のことを思い出した.孤独な魂が,星雲となって渦を巻き,自分とは異なる孤独な魂を求めていく,その魂がめぐりあったときに愛が生まれる… いや,この曲について野暮な解説を試みるつもりはない.それに,そのころの自分が思い起こされて,どうも面映い気もするので.いい曲だと素直に言うだけにしておきます.

愛の試み (福永武彦)

再び読み返すのが怖くなる本というものが,誰にもありはしないだろうか.いわゆる恐怖小説のことを言っているのではない.最初に読んだときの感動があまりに大きく,読み返すことによってその感動が色あせてしまうのが怖くて,読み返すことが出来ない本である.私にとっては,福永武彦のほとんどの作品がそれである. しかし,時間がたつにつれ,もう一度読んでみたいという思いも次第に強くなってくる.最初に読んだときの感動が薄れるのは怖いが,年輪を重ねてきたことによる,新たな読み方や発見があるかもしれない.何より,自分の人生のときどきで,福永武彦の作品を読みたいという気持ちを抑えることは出来ない.そこで,ブログを書いているのを機会に,一つづつ読み返すことにした.今まで大事にとっておいた宝箱のふたを開けるような思いがする. 福永武彦は,残念ながら,一般的にはあまり知られていないかもしれない.福永は,1918年,福岡県筑紫郡に生まれた.その後,東大仏文科を卒業する.そのころ,堀辰雄や高村光太郎と知り合ったらしい.さらに,生涯を通じて,中村真一郎,加藤周一と親交が深かった.福永は,学習院大学で教鞭をとる傍ら,「草の花」「忘却の河」「廃市」「海市」「死の島」等の名作を世に残す.また,加田伶太郎のペンネームで推理小説を発表したり,第2次大戦中には暗号の解読を行ったりするなど,異色の経歴もある.昭和54年,61歳で没.その2年前,病床にてキリスト教の洗礼を受けていた.福永武彦の作品には,観念的,理知的な傾向があり,それが,一般にあまり受け入れられていない原因になっているように思える.しかしながら,その作品は抒情的で,薫り高い.個人的には,本来の意味でのロマンを書ける,日本で唯一の小説家ではないかと考えている.私が最も敬愛する作家の一人である. 福永武彦の作品で,一番最初によんだのは,「愛の試み」(新潮文庫)であった.大学生のころ,新宿の紀伊国屋書店で買った記憶がある.そこで,まず最初にこの作品について書いてみたい. 「愛の試み」は,愛に対する作者の思索の過程をつづった書(エッセイ)である.この思索の過程は,愛が生まれ,また終わっていく過程に沿って語られる.作者はまず,すべての人間が生まれながら持つ,孤独を見つめることから思索を始める. 人は孤独のうちに生れて来る.恐らくは孤独のうちに死ぬだろう.僕等が意識

将棋段位認定テスト

ちょっと忙しくて,なかなかブログを更新する時間がない.聖書を読んで,その記録をつける ( https://ameblo.jp/readingthebible/ ) のが精一杯(いまのところ,一日平均で4ページ程度).ただ,聖書をこつこつと読んでいくのは,思ったよりも楽しい作業である.文語訳でもあるし,毎日読むには私にはこれくらいのペースがちょうどいいようだ. とはいえ,継続は力なりと鼻息も荒く始めたブログなので,更新にあまりに間があくのも憚られる.そこで,自分が続けている,ちょっとしたことを書くことにした. 2000年の半ばくらいから,毎日新聞のサイトで将棋段位認定テストをやっている. 将棋段位認定テスト http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/shougi/etc/nintei/ 1週に一回2問づつ出題され,連続10回の合計点が規定の点を越えれば,それに応じて日本将棋連盟から段位が与えられることになっている.私はこの5年間で,ほぼ100回ほど応募した.その成績は,3段から4段といった程度だろうか. 4段の成績を取るときは免状を申請しようかと思うこともあるが,免状や賞状自身にはあまり興味がなく,また高額なこともあり,今まで申請したことはない.将棋連盟デジタルショップの免状申請ページ ( http://www.rakuten.co.jp/shogi/368741/405974/ ) によれば,4段の免状で73,500円,5段で105,000円するそうだ.将棋連盟の重要な収入源になっているのだろうか.まあ免状とはそもそもそうしたものだろうし,将棋などの文化の育成・発展のためには経済的な支援は必要と考えているので,まったく問題はない.自分の懐具合が今よりはるかに温かければ,寄付のつもりで購入したいくらいである. 話はそれたが,このようなサービスがインターネット上にあるとは有難いことである.自分としても,趣味としてできる限り続けていきたい.何事であれ,こつこつと続けていくことが自分にとって大切なことだと考えているから. (関連エントリ) 聖書を読む - 創世記読了

聖書を読む

昔から,聖書やキリスト教に興味があった.これはおそらく,以下のような理由によると思われる: 海外の小説を読むと,聖書からの引用がよくあるので,どうしても気になる. 以前から,宗教画や彫刻などの,宗教芸術に興味があった. 大学時代の,尊敬する先生がクリスチャンだった. 実家に (文語訳) 「旧新約聖書」(日本聖書協会, 1974) があった.別にクリスチャンというわけではないが. 旧約聖書,新約聖書の構成が,独特であるので興味深い.旧約聖書は,エホバ神の物語である.大変起伏に富んだ物語であり,詩篇,雅歌,伝道之書といった,現代文学にも類を見ないような巻までも含む.一方,新約はキリストの福音であるが,これもまた独特の構成である.マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネといういわゆる4大福音書を含み,また,聖書という書物の性格にしては異色(と私には思われる)のヨハネの黙示録がある.旧約・新約聖書が,如何にして現在の形を取るようになったのか. 今まで何度か通して読もうとはしたことはあったのだが,旧約聖書で約1600ページ,新約聖書で約530ページほどある (上記「旧・新約聖書」において) ので,結局挫折してしまっていた. そこで,ブログを始めて2ヶ月になったこともあり,前から心に温めていた,聖書の通読およびその読書の記録に再度挑戦することにした.この試みでは,とにかく最後まで読み通すことを第一の目的としたい.それを念頭において,「絶対やるべきこと」と「できればやること」を,以下のように決めたいと思う. 絶対にやるべきこと 最後まで読み通す 一回で少なくとも一章読む (なお,聖書の一章は2ページ程度と短い) 読んだ記録 (「~記の何ページ」程度の,最低限の情報でよい) をブログに書く できればやること(最善の努力はするが,できなければ無理しない) 毎日読む できれば10ページ以上読む 読んだ部分の概要を書く 感想を書く もちろんできるだけ一気に読んでもいいのだが,大事に読んでいきたいことと,読んだ記録をつけていきたいと考えていることから,一回で最低一章という量に設定した. また,上記のような聖書の読書録は,このブログに書くと見通しが悪くなるので,新たに独立した以下のブログを開設し,そこに記録することにした.実は,9月1日からすでに読み始めている. 聖書を読む https://ameblo

子供に見せるべき作品について (その2)

るなーんさんへ. このブログを書いている者です.始めて間もないブログですが,読んでくださる方がいらっしゃるのは嬉しいです.また,コメントまで頂き,大変有難く思います. お返事が遅れて申し訳ありませんが,頂いたコメント http://dayinthelife.at.webry.info/200508/article_14.html#comment (リンク切れ) について,私の考えを述べさせていただきたいと思います.最初はコメント欄に書いていたのですが,ちょっと長くなったので独立したエントリにいたしました.どうかご了承ください. まず,ドラえもんの映画の件です.私は趣味といえば読書で,アニメはあまり見ません. このエントリ に書いたように,映画ドラえもんについても10年くらい前に見たときの感想ですし,子供向けで,他にもっとよいものはあるかもしれません.もしそのような作品をご存知でしたら,ご教示いただければ感謝いたします. このエントリ に書いた男の子の誕生日祝いに,アニメのDVDか本を贈ろうとしたことがあったのですが,店に行っても何が何やら分からなくて往生したことがありますので. 次に,まんが日本昔ばなし(以下,日本昔話)の件です.これについては,私はるなーんさんとはやや異なる見解を持っています. この記事 (リンク切れ)によれば,日本昔話がはじまったのは1975年とのことです.しかし,70年代でも,一般家庭における,豊かな地方文化としての昔話を伝承する機能というのは,ほぼ無くなりつつあったのではないでしょうか.たとえば私は,この70年代に,祖母から子守唄代わりに昔話を聞いたことがあります.おそらくそのような最後の世代でしょう.しかし,その際に聞いた昔話は,花咲かじいさんのようなメジャーな話ばかりだったように思います.これは単なる私の個人的経験に過ぎず,それをもって結論付けるわけでは勿論ありませんが,その後得た知見でもそのように実感しておりますが,いかがでしょうか.結局のところ,70年代においてすら,豊かな地方文化としての昔話は,文献をあたるか地方の古老にでも聞くしかなかったという状況だったのではないでしょうか.言い換えれば,日本昔話があろうが無かろうが,昔話は(有名なもの以外は)ほぼ滅びる運命にあり,それを保存するためには明確な努力が必要とされていたというように感じ