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へんろう宿 (井伏鱒二)

以前,といってももう2か月も前になるが, 私の note  で,井伏鱒二について触れた.今回のエントリでは,その作品について,もう少し書いてみたい. 井伏鱒二の作品としては,「黒い雨」や,教科書にもよく載る「山椒魚」の二つが最も有名だろう.しかしながら,私がまず思いつくのは,「駅前旅館」や「へんろう宿」という,二つの小説である.この記事では,後者について書いてみたい. 「へんろう宿」は,非常に短い作品である.ドラマチックな展開もない.しかし,この掌編は,しみじみ私の記憶に残っている. この作品のストーリーは,以下のようなものだ.著者である「私」は,所用で土佐を訪れ,遍路岬で宿をとる.その土地では,遍路のことを,「へんろう」と云うのであった.そして,「私」が泊まった「へんろう宿」には,奇妙な風習があったのである. このへんろう宿は,宿屋としては貧弱であるが,5人も女中がいた.3人のお婆さんと,2人の女の子である.そして,その日の夜遅く,「私」の泊まっている隣の部屋で,一人の宿泊客と,この宿の一人のお婆さんが,酒を飲みながら話をしているのである.「私」はそのとき眠っていたのだが,二人の話し声で,目を覚ましてしまった.そのお婆さんは,へんろう宿の女中のこれまでの人生について語っているのであった. 「(中略)一ばん年上のお婆さんがオカネ婆さん,二番目のがオギン婆さん,わたしはオクラ婆さんと言います.三人とも,嬰児(あかご)のときこの宿に放(ほ)っちょかれて行かれましたきに,この宿に泊まった客が棄(す)てて行ったがです.いうたら棄て児(ご)ですらあ」 ひょうひょうとした御婆さんの口ぶりであるが,内容は衝撃的である.なんと,この宿の5人の女中は,全員,もともとは捨て子だったのである.幼い赤子をかかえた親が,遍路岬を道中する途中,その赤子を持て余し,へんろう宿に捨て子をする.へんろう宿には,そんな奇妙な風習があったのだ. お婆さんの話を聞いた宿泊客は,捨て子をする親の料簡を不審がる.そして,お婆さんと客の会話は続いていく. 「戸籍面はなんとするのやね.女の子でも戸籍だけは届けるやろう.嫁にも行かんならんやろう」 「いんや,この家で育ててもろうた恩がえしに,初めから後家のつもりで嫁に行きません.また,浮気のようなことは,どうしてもしません」 「はてなあ,よくそれで我慢が続いてきたも