桜の森の満開の下 (坂口安吾)
大学のとき文学部の友人が卒論のテーマとして坂口安吾を選び,そのつきあいで,坂口安吾の小説はだいたい読んだと思う.しかし,今となっては,坂口安吾の有名ないくつかの作品について,ぼんやりと覚えている程度である.ところが最近,スマートフォンや iPad などで青空文庫を簡単に読むことができる環境が充実してきていることもあって,ふたたび坂口安吾の小説を懐かしく読み返している.今回のエントリでは,坂口安吾の小説の中でも最も有名な,「桜の森の満開の下」について書いてみたい.なお,本エントリの引用はすべて青空文庫による. 「桜の森の満開の下」は,概略を述べれば,一見単純な小説のように思える.或る山に,山賊の「男」が住みつくようになった.「男」は,ある日,美しい「女」をかどわかす.二人は山で共に暮らすことになったが,それに飽きた「女」は,以前住んでいた都をあくがれるようになった.そこで「男」と「女」は都で暮らすようになったのだが,やがて「男」は,昔の山こそが自分にとって理想郷であったと思い至る.こうして「男」と「女」は再び山に戻ろうとするのだが,そこで二人はある結末を迎えるのである. もちろん,このような単純なまとめでこの小説を語ることはできない.「桜の森の満開の下」は,不思議な,そして恐ろしい小説である.我々は,この作品を読み進めていくと,次第に,ひやりとした狂気の存在を確かに感じていくようになる.そしてその狂気を生み出すものが,満開の桜の花なのである. 咲き乱れる満開の桜には,確かに狂気がある.梶井基次郎は,「桜の樹の下には」で,それを鮮烈なイメージで描き出した(本ブログのエントリ: 桜の樹の下には ).坂口安吾の「桜の森の満開の下」では,桜の狂気は別の姿をとって現われる. (註: 桜の)花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と跫音(あしおと)ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。 満開の桜の森の下は,静かなままで何の物音もしない.しかし,そ...