蛍川 (宮本輝)

このブログを書き始めてから,今まで読んできた,あるいはこれから読む本について,いろいろ思ったこと考えたことを書き留めておきたいと思うようになってきた.そう思うと,今まで読んできたいろいろな作家のいろいろな作品が思い浮かび,そのときの思いがあふれてくるような気がする.そのようなすべての作品について書いていたらきりがないような気がするが,こつこつと続けていこうと思う.


そこで,まず書いておきたいと思うのが,宮本輝の作品である.最初に読んだ宮本輝の小説は,「蛍川」で,高校生のときであった.「蛍川」は,いわゆる河三部作の一つで,芥川賞も受賞した.宮本輝の初期の代表作である.映画化もされており,宮本輝の作品の中でも,最も有名な作品かもしれない.


「蛍川」は,私にとってはまさに衝撃的な作品であった.作品全体を貫く,みずみずしく,胸を締め付けてくるような抒情,そしてそれは,言いようのない読後感となっていつまでも私の中に残るものであった.それはまさに,宮本輝的なものとしか説明のしようがない.


蛍川の舞台となるのは,昭和37年の富山市で,主人公の竜夫は中学3年生の少年である.竜夫は,父重竜が52歳のときに生まれた子供であり,それゆえに父に溺愛された.しかし,重竜は事業が倒産し,失意の中にある.悪いことは続くもので,重竜は,脳溢血で倒れてしまった.重竜は自分の死期が近いことを自覚する.


このとき,竜夫は,思春期にさしかかるところであった.竜夫の,幼馴染の英子に対する思い.それは淡い恋心でありながら,同時に,性の目覚めでもあった.そのような自分に竜夫は戸惑うしかない.


竜夫は,ことし75歳になる建具師の銀蔵爺さんから,4月に大雪があった年に現れるという,蛍の大群の話を聞いていた.銀蔵は語る.


・・・滅多なことじゃあ見られんがや.4月に大雪が降るほど,冬の長い年でないと,蛍の奴は狂い咲いてくれんちゃ・・・


今年の4月は大雪であり,何年かぶりに蛍の大群が見られそうだと銀蔵は言う.竜夫は,首筋が火照るような思いがする.なぜなら,そのような年には蛍狩りに行こうと英子と約束していたからであった.


そのうちしばらくして,友人の関根と,父重竜が,立て続けに亡くなってしまう.連続であった日常に潜んでいた,不連続さと理不尽さ.竜夫は,死というものを受け入れ理解することができない.ただ,「死ということ,しあわせということ,その二つの漠然とした不安」が体の中で競りあがってくるように感じられた.そして父の死後,竜夫とその母の千代は,千代の兄を頼って大阪に行くことになった.


さまざまな思いを抱え,竜夫,英子,銀蔵,千代の4人は,蛍を見に行く.4人は,4月に大雪のあった年に現れるという蛍の大群を目指して,常願寺川の支流のいたち川を相当な距離歩いていく.そして彼らは見たのである.何万何十万もの蛍火が,川のそばでうねっているのを.


・・・蛍の大群は,滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように,はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し,天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた・・・


このラストシーンを読んで,鳥肌が立ったのを覚えている.この風景の背後にあるのは,底なしに深い漆黒の闇であり,人を狂気にいざなうような無音の世界である.この闇は,作品の中で何度も投げかけられた死の影,というより死そのものに他ならない.その闇を背景に,何十万とも知れぬ蛍火が,あたかも一つの生き物であるかのようにうごめき舞い上がり,光のうねりとなっていく.この光景は,見るものに狂気と畏怖を感じさせずにはおかない.そして,この光の中の一つ一つの蛍の燐光を,それぞれ一人の人間の生の灯火と見ることもできよう.死の闇に抱かれた人間の生のささやかな炎(ほむら)が無数に集まり,光の川をなしていく.だが,この光の川は,それだけで光となることはない.死の闇なくしてはこの光は光たり得ないのである.我々は,無窮の闇を背景とした蛍の大群の狂気の乱舞に,生と死とが交わりあうもの,すなわち運命の深遠を垣間見て,ただ圧倒されるしかない.


「蛍川」は,宮本輝の自伝的要素の強い作品である.また,家族への思い,生あるいは性,死,等々,後の宮本輝の作品のモチーフがすべてここには込められている.


この作品を読んだ後,宮本輝の作品をむさぼるように読んだ.まさに惑溺したといってよい.それらの作品についてはまた書いてみたい.




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