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3月, 2006の投稿を表示しています

塔 (福永武彦)

人からすすめられて面白かった本(参照: 美しい星 )についていくつか書いてきた(といっても三作品だけだが…).しかし,次に書いてみたい本がいま手元にないので,今回は別の本(福永武彦「塔」)について書くことにしたい. 「塔」は,福永武彦の初期短編集である.私が持っているものは河出文庫であるが,いま調べてみるとやはり品切・重版未定となっているようだ.非常に残念に思うとともに,入手しにくい本の書評ばかり書くことに恐縮している. 本書には,「塔」「雨」「めたもるふぉおず」「河」「遠方のパトス」「時計」「水中花」の計7作品が収められている.最初の短編「塔」が発表されたのは,終戦直後の1946年,福永が28歳のころであり,戦争の影を残す作品が多い.本書は,初期の短編集ではあるものの,後期のあの精緻につむぎ上げられた,完成度の高い福永武彦の世界を十分に窺い知ることができる.いずれの作品にも思い入れがあり,ここではどれについて書こうかと迷ったのだが,特に,「河」について書くことにしたい.他の作品についてもいつか書くかもしれない. 「河」の主人公の少年,「僕」は,その出生時に母親が亡くなって以来,田舎に預けられていた.そうしたときに,不意に父親が現れ,「僕」を引き取っていく.両親(ふたおや)の愛情を知らない「僕」は,実の父親と暮らしていく喜びに胸を膨らませる.だが,この希望はもろくも崩れ去る.父親は,「僕」のことを憎んでいたのであった. 父親と暮らすようになっても,「僕」は拒絶され,孤独の中にいる.そんなある日,「僕」は,父親の理不尽と思える叱責により家を飛び出して,河まで出て行く.それから,「僕」は淋しさのあまりたびたび河まで出かけ,堤防に腰をかけ物思いにふけるようになる.河のとうとうたる水の流れ,暗い水面,落日のまぶしい対岸は,少年の「僕」に,時の流れ,すなわち過去・現在・未来について考えさせずにはおかない.しかし,「要するに僕には未来というものがよく分らなかったのだ」.「僕」は,自分の未来が,この河のように暗く,悲しいものであるのではないかと恐れ,その心の震えを抑えることができない. もし今日の一日が,と僕は考えた.今日の一日が明日に連なるように,また昨日が今日とたいして変ってもいないように,未来の時が今日のこの僕の体の中に既に刻みこまれてしまっているならば,ああ僕に何が出来る

MIT メディアラボの研究 - 「恋人のグラス」と「オーディオ・スポットライト」

Gizmodo と Boing Boing で,マサチューセッツ工科大学 (MIT) のメディアラボの研究に関するエントリがあった: Lover's Cups - Gizmodo http://gizmodo.com/gadgets/gadgets/lovers-cups-159491.php Boing Boing: Wirelessly-enabled wine glasses http://www.boingboing.net/2006/03/09/wirelesslyenabled_wi.html これらの記事によれば,MIT のメディアラボの学生,Jackie Lee と Hyemin Chung が,遠距離恋愛をしている恋人のために,「Lover's Cups」というワイングラス(というより,タンブラーに近い)を考案したとのことである.恋人の二人は,それぞれ一つのカップを用いる.この二つのカップはワイヤレスで接続されており,センサーによって,中の液体の状態を検出できる.そこで,一人がカップを持ち上げると,その動きが検出され,二つのカップの赤い発光ダイオード (LED) が輝く.さらに一人がそのカップに口をつけると,もう一人のカップの白のLEDが発光する.そこで,二人は,一緒にお酒を楽しんでいるような気分にさせられるという. このカップが遠距離恋愛をしている二人に有用であるかどうか,断言できかねるところはある.しかし,このようなアイディアを真面目に(?)取り組もうというのは,我々日本人にはなかなかできないことかもしれない. 話は変わるが,私は以前この MIT のメディアラボに見学に行ったことがある.そのときも,様々な独創的な研究に感銘を受けた.そのとき印象に残ったのが,「オーディオ・スポットライト」という研究である. 超音波ビームで「ねらい定めて」音を伝える新技術 http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20020225301.html メディアラボを訪れたとき,このような独創的な研究を生むアメリカの土壌について,以下のようなことを考えたことを覚えている.アメリカでは,人と違うことを行うことが非常に重要視されているように思われる.その9割以上はくだらないアイディアだが,残りわずかなとこ

人間の限界 (霜山徳爾)

時間ができたので,また,人から薦められて面白かった本(参考: 美しい星 (三島由紀夫) )について書いてみたい.今回は,霜山徳爾先生の「人間の限界」(岩波新書)について. 「人間の限界」は,高校生のときに親戚にすすめられて読んだ本である.その当時で既に絶版であったから,今では手に入りにくいだろう.著者の霜山先生は,「夜と霧」(V. E. フランクル,みすず書房)の訳者としても有名である(「夜と霧」は,別の訳者で新版が出た).臨床心理学,精神病理学などを専門とされている. この本で問われる,人間の限界とはなんだろうか.著者はまず,その一つの例をあげる. 「宿かさぬ 火影や雪の 家つづき」(蕪村) ―― 知性に富む,若い初期の分裂病者に,この句をきかせると,彼は痛いほどそれが判るという.彼自身が精神の病によって,いやおうなく深い寂寥の内にいるからであろう.しかし,同じ蕪村の句でも「さくらより 桃にしたしき 小家かな」に対しては,全く何のことか判らないと途方にくれる.桃の花というのは野暮なもので,桜のように高雅でないから,小さな家には似合うのだと注釈を加えても,彼はまださっぱりと理解できない.ここに暖かい心が枯れてしまった彼の限界がある. 著者は更に,他者に対する理解の限界について問いかける.すなわち,我々は,他者をどこまで理解することができるだろうか.逆に,自分が小さい時から今日まで,たった一人でも誰かに真に理解されたことがあっただろうか. 言いかえれば,人間の限界というものは,人間の存在への「否み」という側面を持たざるを得ない.しかし,本書で著者は,この否みから眼をそむけ,否定することはしない.なぜならば,この否みは,同時に恵みでもあるからである.この否み,すなわち人間の限界を考えることは,人間とは何か,人が生きるということはどういうことであるかを見つめなおすことに他ならないのである. 本書では,人間のさまざまな限界のもとで,人間が生きていくということ,いのちの限りに与えられる行為について,深い思索が積み重ねられていく.さらに本書では,それが,古今東西の詩や小説などからの広範な引用によって語られる.著者には「人間の詩と真実」(中公新書)という名著もあるが,本書「人間の限界」で語られている内容も,まさに人間の詩と真実に他ならない.(「人間の詩と真実」という書名は,もちろ