イカロス (三島由紀夫)

ある晴れた夏の日,山に車で行った.休憩のとき,車から降りると,空の青と入道雲の白が眩しかった.そこから見える平野部の町並みの景色が素晴らしい.なんとはなく,感傷的な気分になった.そして,ふとイカロスの神話について思った.


この時代,アテナイ人は,クレタの王ミノスに納めるべき生贄のことで悩まされていた.生贄は7人の少年と7人の少女であり,人身牛頭の怪物ミノタウルスの餌食となるのである.ミノタウルスは,名工ダイダロスがクレタ島に作った迷宮(ラビュリントス)に飼われていた.この迷宮は大変巧みに出来ており,いったん迷い込んだが最後,その出口を見つけることは不可能であったという.


この怪物ミノタウロスを退治するために,アテナイの王子テーセウスがやってくる.テーセウスと,ミノス王の娘アリアドネは恋に落ちる.アリアドネは,ミノタウルスを倒すための剣と,一つの糸鞠をテーセウスに与える.この糸鞠は,迷宮を脱出するための手段としてダイダロスが作ったものであった.


テーセウスは首尾よくミノタウルスを仕留め,アリアドネとともにクレタ島を出奔する.しかし,アテナのお告げにより,アリアドネをナクソスの島に置き去りにして,テーセウスはアテナイに帰ってしまう.


一方で,ダイダロスの振る舞いに激怒したミノス王は,ダイダロスとその息子イカロスを塔に監禁する.


ダイダロスは,イカロスとともにこの塔を脱出するため,鳥の羽を集め,糸と蝋で固めて翼を作る.父子はこの翼で空を飛び,塔を脱出した.ダイダロスはイカロスに言う.「イカロスよ,空の中ほどを飛ばなければいけないのだよ.あまり低すぎると霧が翼の邪魔をするし,またあまり高すぎても熱気で溶けてしまうから,私のそばにくっついておいで・・・」


しかし,イカロスは有頂天になり,父の命に背き,天高く翔けて行く.やがて太陽の熱で,翼をとめていた蝋が溶けてしまい,ばらばらになってしまう.イカロスは墜落し,青海原の真ん中に落ちて死んだ.この海は,イカロスの海と呼ばれることになった.また,ダイダロスが嘆き悲しんでイカロスの遺体を葬った土地はイカリアと名づけられたという.


この神話に何か寓意があるとすれば,いろいろと考えることが出来るだろう.旧約聖書におけるバベルの塔の逸話のように,神の高みを目指した人間の僭越や冒涜とも思えるし,鳥のように空を飛んでみたいという人間の希求,そのための努力,愚かさ浅はかさによる失敗という,人生の一断面あるいは教訓を表しているとも思える.いずれにせよ,イカロスの神話の魅力は我々を捉えてはなさない.この神話は芸術家の想をかきたて,一つのモチーフとなった.最も有名なのは,ブリューゲルの「イカロスの墜落」 (正式には,「イカロスの墜落のある風景」,英語で言うと「Landscape with the Fall of Icarus」) であろうか.あまり有名ではないが,ルーベンスにも「イカロスの墜落」という作品があり,部屋に飾ってよいとしたら個人的にはそちらのほうが好みである.また,シャガール,マチス,ピカソにもイカロス神話をテーマとする作品があるようだ.


しかしながら,こと文学作品に限っては,この神話を最も完全な形で昇華させたのは,三島由紀夫の詩「イカロス」であろう.


イカロス


私はそもそも天に属するのか?

さうでなければ何故天は

かくも絶えざる青の注視を私へ投げかけ

私をいざなひ心もそらに

もつと高くもつと高く

人間的なものよりはるかに高みへ

たえず私をおびき寄せる?


均衡は厳密に考究され

飛翔は合理的に計算され

何一つ狂ほしいものはない筈なのに

何故かくも昇天の欲望は

それ自体が狂気に似てゐるのか?


・・・



空とは理想,あるいは完全なるもののことであるかもしれない.地上にいる我々は,如何に満たされ,充実した生を送っていようと,満ち足りることは無い.さらなる高みへの,渇きにも似た狂おしいまでの思い.我々は,この欲望を説明することが出来ない.我々が生まれながらにして持つ,完全なるものへの渇き.三島由紀夫は,イカロスの神話を題材に,この狂おしいまでの昇天の欲望を,あくまでも理知的に,見事な文学的昇華として表した.そしてこのイカロスは,三島自身に他ならない.三島由紀夫は,自身の鋭い感性のゆえに,人一倍その渇きを強く感じ,そしてそれは生涯癒やされることが無かったに違いない.そして,この詩に現れるのは,天とイカロスの二者のみである.そこでは,イカロス,すなわち三島は,どこまでも孤独である.三島が自決を選ぶしかなかったことは,一つの必然であったかもしれない.



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