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人と人に架ける橋

以下のエントリを読んで、興味深く思った。 株式会社ゼンリンさん発案!思わずなんじゃと言いたくなる「びっくり道路選手権」タグ抜粋まとめ - Togetter https://togetter.com/li/1639403 上記エントリを読んで特に思いをはせてしまったのは、橋についてである。橋とは、一体何であろうか。 もちろん辞書的に言えば、橋は、対岸へ渡ることを目的とする建築物のことである。しかし、橋は、人にとって、その語義を超えた意味を持つように思うのだ。 橋というものを考えるとき、いつも私の頭に浮かぶのは、水上勉の文章である。 水上勉は大正8年、福井県に生まれた。その父は寺社大工といっても貧しく、水上は9歳から家を出され、瑞春院(京都)の徒弟となった。このような背景は、後の水上作品にたびたび描かれている。 たとえばその一つに、「生きるということ」という作品(新書)がある。そのエッセイにある以下の文章は、水上の生い立ちとともに、橋というものを語り、読むものの心をしみじみ揺さぶるのである:  小さいころ、母はよく、谷の奥に私をつれていって、蓑(みの)一枚ぐらいしかない小さな田の畦(あぜ)にすわらせ、自分は胸までつかる汁田(しるた)で苗を植えていた。この谷は暗くて、一日に陽が三時間ほどしか射さなかった。村でもきわめて貧しい谷であった。そんな谷の口に私たちの家があった。谷には畑もあった。そこで、母は芋や大根をつくった。ここへゆくのに、深い川が一つあった。木橋がかかっていたが、大水のたびによく流失したので、母はよく橋普請した。(中略)母は、自分一家の収穫のための谷田へわたされた橋を、その生涯に何度架けただろう。(中略)  私は、九歳でこの母に別れた。京都の寺へ小僧に出たからだが、故郷のことを思うと、母の架けていた橋が瞼(まぶた)にうかんだ。今日も、それはうかぶ。旅をしていて、汽車が、似たような山の谷をすぎると必ずうかぶ。ああ、日本という国は、どうして、こんなに似た谷や山が多いのか。青森でも、四国でも、九州でも、わが在所の谷と似た谷をみた。それらのいずれの谷にも、奥へゆくと、小さな橋が架かっているだろう、と私は思ったものだ。 同書でさらに水上は、続けて、名古屋市熱田にあった、裁断橋(さいだんばし)の擬宝珠(ぎぼし)に書いてある碑文を紹介する。それによれば、豊臣秀吉の小田原の陣