人間はどんなところでも,どんな時でも何歳からでも学ぶことができる

このブログは2005年の7月に始めたものなので,ちょうど丸2年になる.過疎ブログであってもブログを書くことは大変楽しく,頻繁には無理にしても,細々とは定期的に更新しようと考えていた.ところが,とうとう先月は一つもエントリを書かなかった.このブログの最初に,「ブログを始めるにあたって - 継続は力」などという偉そうなエントリを書いたことが恥ずかしく感じられるほどである.気持ちを改めて,できるかぎりの更新を心がけるようにしたい.


また無意味に前置きが長くなってしまったが,今回,ロイターの記事に大変勇気づけられる記事があったので,それについて書いてみたい.


Australian granny, 94, becomes world's oldest master
http://www.reuters.com/article/lifestyleMolt/idUSSYD3300820070802


この記事によれば,オーストラリアの94歳の女性が,medical science の分野で修士の学位を取得したという.世界最高齢での修士学位取得ではないかということである.彼女は,父親が去って行った12歳の時に,兄弟を世話する母親を助けるために,小学校を去った.それから60年後,人類学を学ぶためにアデレード大学に進学.90歳の時に修士に進み,5年かけてとうとう修士学位を取得した.その間,毎朝5時に起きて,研究と勉学に勤しんでいたということである. 


だが,日本も負けてはいない.今年の3月に,下記のような記事があった.


河北新報ニュース 定年退職後に数学博士号 大阪大の71歳男性
http://www.kahoku.co.jp/news/2007/03/2007031001000102.htm


この記事は残念ながら現在リンク切れとなっているようである.そこで,Google などで検索すると,以下の記事が見つかった.こちらの方が詳しいようだ.


あっぱれ71歳数学博士 金子さん阪大大学院を卒業
http://www.sankei.co.jp/seikatsu/trend/070323/trd070323000.htm


この記事にあるように,金子さんは定年後に数学を学び始め,修士課程を経て博士課程に進学,69歳で最初の学術論文を発表し,71歳で見事数学の博士学位を取得したとのことである.通常は,理系の学問における大きな成果は若い間にあげられるものと考えられており,数学はその最たるものであるから,71歳で学位取得というのは大変まれなケースであると思われる.


私が70歳になったとき,そして,幸運にも90歳まで生きることができたとき,はたして彼らと同じように学問への情熱を持つことができるだろうか.多分できるのではという思いもあるが,やはり無理なのではという思いも感じる.しかし,上記の記事は,そのような一抹の不安を完全に吹き飛ばしてしまうような希望を強く感じさせるニュースである.人間はどんなところでも,どんな時でも何歳からでも学ぶことができる.そのような勇気と希望を与えてくれる記事ではないだろうか.


自分が90歳になったときも,細々とでもブログを書き続けており,そのときにこのエントリを読み直して,勇気づけられるようなことになればいいなと思う.そういう意味では,ブログを書くということは,過去・現在・未来のそれぞれの自分との対話に他ならないかもしれない.90歳になって,上記のお二人に負けないような情熱を持つ自分であって欲しいし,そうなるよう努力していきたいと考えている.




付記


このエントリーのタイトルは,MASTER キートンという漫画の,ユーリ・スコット教授(キートンの大学時代の恩師)のセリフ「人間はどんなところでも学ぶことができる.知りたいという心さえあれば」をもじったものです.私はこの漫画が好きなのですが,特にこのユーリ・スコットのエピソードが好きで,何度読んでも涙が出てくるほどです.いつかこのブログでももっと詳しく書くかもしれません.



追記 2008年3月14日


以下のような記事がありました:


81歳で博士号取得、ダイオキシン減らす研究で
http://sankei.jp.msn.com/life/education/080313/edc0803132125004-n1.htm


長崎の81歳が博士号取得 ダイオキシン減らす研究で
http://www.kahoku.co.jp/news/2008/03/2008031301000917.htm


上記記事によれば,81歳の久保田英士さんが,ゴミ焼却炉の排ガスを水滴で冷却してダイオキシン類の生成を抑制するという研究を行い,博士号を取得したそうです.久保田さんは定年退職後に長崎大の博士課程に進学したそうで,ご本人の話によれば,「学生時代は戦争で勉強できなかったが,ダイオキシンを減らす研究をするのが生きがいだったのでうれしい」とのこと.すばらしい,勇気づけられる話だと思います.80歳でも学問に対する情熱を持ち続けられる自分でありたいと思いました.




追記(2008年7月15日)


'World's oldest blogger' dies at 108
http://www.cnn.com/2008/WORLD/europe/07/14/oldest.blogger/index.html


世界最高齢のブロガーといわれていた,オーストラリアの女性 Olive Riley さんが108歳でなくなったとのことです.彼女は1899年の生まれで,彼女のドキュメンタリーを撮影した Mike Rubbo のすすめで2007年からブログを始めていたそうです.私は108歳まで生きることはできないでしょうが,死ぬまでブログを書き続けられたら素晴らしいなと思いました.




追記(2008年9月10日)


Wikipedia の草柳大蔵の項に興味深い内容があったので,引用しておきます.


草柳大蔵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E6%9F%B3%E5%A4%A7%E8%94%B5


エピソード

現:東北楽天ゴールデンイーグルス監督の野村克也が、人生で大きく影響を受けた人物である。(中略)1977年の南海監督解任時には、夫人が南海球団によってスケープゴートにされたと激怒した。野村がこのまま現役引退したほうがいいのかと相談をしたところ、「42歳ならまだ若い。当時のフランスのフォール首相は、75歳でロシア語の勉強を始めた」という事例を語り、何事も生きているうちは勉強という「生涯一書生」という言葉に送った。それにあやかり「生涯一捕手」という、のちの代名詞が生まれた。



追記(2010年1月31日)

http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010012901000737.html より:


米、百歳の元女性教師に学士号 念願かなうも翌日死去


 【ニューヨーク共同】今月初めに100歳の誕生日を迎えた米ニューハンプシャー州の元女性教師が22日、念願の大学卒業(学士認定)証書を受領したが、翌23日に息を引き取った。AP通信や地元紙(電子版)が29日までに報じた。女性の娘によると、証書を手に満足しながらホスピスで最期を迎えたという。




追記(2010年3月22日)

http://mainichi.jp/photo/news/20100310k0000e040074000c.html より:


夜間中学:91歳女性が卒業…戦災・震災乗り越え 神戸


 戦争の混乱などで教育を受けられなかった人らが通う神戸市須磨区の夜間中学「市立丸山中学西野分校」の卒業式が10日、同市長田区であり、91歳の平井シヅヱさんが3年間学んだ喜びをかみしめ、卒業証書を受け取った。18歳で結婚、しかし夫は戦死。震災で自宅は全焼。「今日のこの日を、新たに歩いていく日にしたい」。平井さんは決意を新たにした。



http://osaka.yomiuri.co.jp/university/topics/20100319-OYO8T00609.htm より:


「今後も研究を」タカラ創業者が山形大院修了 85歳で工学博士に

 

ギネスブックに申請


 玩具メーカー「タカラ」(現タカラトミー)を創業し、「おもちゃの王様」と言われる佐藤安太(やすた)さん(85)が、山形大大学院理工学研究科の博士課程を修了。21日に山形県米沢市で行われる学位記授与式に臨む。博士論文では、大ヒットした「だっこちゃん」「人生ゲーム」などを生み出した経験を踏まえ、ものづくりの創造性を後継者らに効果的に伝える方法を理論化した。同大は「名誉博士号などを除けば、これほど高齢の工学博士の誕生は例がないのでは」としており、佐藤さんは自らギネスブックに記録を申請した。



明日あさって,3月23日,24日は全国の大学で卒業式です.若者に幸多かれ.そして,お互い,一生学んでいくことの喜びを共有できればと思います.




追記(2011年9月28日)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110928/k10015891601000.html より:


67歳の博士 新たに誕生 

9月28日 7時16分   


博士の学位を取得したのは、福岡県春日市の林直行さん(67)で、授与式では1歳年下の衛藤卓也学長から証書を手渡されました。林さんは、高校卒業後、経済的な理由から大学進学をあきらめ働いていましたが、4人の息子が社会人になって独り立ちしたのを機に、7年前の59歳のときに福岡大学に入学しました。その後、大学院に進み、全国900の企業が取り組む省エネ対策を研究して書き上げた論文で博士の学位を取得したということです。林さんが博士の学位を取得した67歳という年齢は、福岡大学では最高齢だということです。




追記(2011年10月18日)

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-182894-storytopic-1.html より:


70歳超、アフリカで修士号 ザンビア在の高良初子さん

2011年10月17日 


 70歳を過ぎて大学院で修士号を取得した(沖縄)県系1世の女性がいる。アフリカ南部のザンビアに移住した高良初子さん(77)=那覇市小禄出身=だ。研究テーマはザンビアの労働歌。研究生活は苦労の連続だったが「沖縄の女性であるという誇りが支えてくれた」と高良さんは語る。




追記(2012年5月15日)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120514/k10015094621000.html より:


私もかくありたいと思います.


19年清掃続け米名門大を卒業

5月14日 8時40分


アメリカの名門大学の一つ、コロンビア大学で、19年間構内の清掃員をしながら授業料の免除制度を利用して勉強を続けた男性が、13日、学士号を取得して卒業し、全米で話題となっています。


この男性は、ニューヨークに住むガッツ・フィリーパイさん(52)です。

フィリーパイさんは旧ユーゴスラビアで生まれ、大学で法律を学んでいましたが、紛争のさなかに中退を余儀なくされ、32歳のとき、戦渦を逃れてアメリカに渡りました。

当時、英語が全く話せなかったフィリーパイさんは、コロンビア大学で清掃員の仕事を得たあと、大学が職員に対して設けている授業料免除の制度を利用して英語を勉強し、40歳からは一般教養の授業を受け始めました。

午前中は授業に出席し、午後は11時まで掃除やゴミ捨ての仕事という生活を19年間続けた結果、このたび古典学の学士号を取得し、13日、卒業しました。

アメリカのメディアは、フィリーパイさんの卒業を大きく取り上げ、「働きながら学ぶということに新しい意味を与えた」などと称賛しています。

フィリーパイさんは次は修士号を狙いたいとして、このまま清掃員として大学に残り、勉強を続けるということです。




追記(2012年12月24日)


学問や勉強の話ということではありませんが,葛飾北斎の絵がすごいので.


【これが88歳の作品!?】葛飾北斎が老いてから描いた画が強烈すぎる【波の画だけじゃない】

http://bakumatsu.org/blog/2012/12/hokusai.html


80を越えてなお絵を描くことに執念を燃やした北斎の生き様もすごいですが,その残した作品もまた強烈です.




追記(2013年1月14日)


こういう人こそ私のロールモデルです.


【99歳大学生、通学に2時間かけ国際政治史の勉強に励む「世の中にはいろんな知らないことがあるもんな」】


 大阪府和泉市にある桃山学院大。その教室で、10代、20代の若い学生たちに交じり、深い年輪のしわが刻まれた顔で、まっすぐ前を見つめる老人がいる。ピンと背筋を伸ばし、講義に集中する姿は、かえって若々しくも感じられる。この人は、大阪市東成区の自宅から同大学に通う村川信勝さん。なんと現在、99歳の聴講生だ。

(中略)

 「勉強したい」という思いは、少年のころから抱き続けていた。


 しかし、尋常小学校を卒業後、すぐに働きに出ざるを得なかった。「中学に上がって勉強したい」という願いは、家計が許さなかった。


 戦前だった当時、村川さんの周囲も含めて「みんな貧乏な時代やった」という。「わしはよくても、成績のよいやつはかわいそうでな。一緒に泣いたこともあった」


http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130114/wlf13011418010013-n2.htm




追記(2013年4月18日)


上記(2013年1月14日)の記事の続報がありました:


99歳の大学生、3度の吐血も乗り越えて新学期も通学 12月には100歳に

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130417/wlf13041719140027-n1.htm


99歳の社会人聴講生として桃山学院大学(大阪府和泉市)に通学してきた村川信勝さん=大阪市東成区=が、4月からの新学期も2科目選択し、7年目の聴講生として通学を続けることになった。今年中に100歳という節目を迎えるが、「頑張らなしゃあない」と学習意欲はさらに旺盛だ。

(中略)

大学に通うには、自宅から自転車で最寄りの駅まで行き、地下鉄や南海電鉄などを乗り継ぎ、さらにバスに乗る必要がある。階段の上り下りなども多く、片道約2時間の道のりは、99歳の村川さんにとっては大変な運動だ。


それでも、大学に行きたいという熱意が体を動かす。「今ここに来ているというのは、それぐらいの体力はあるというこっちゃ」と村川さん。


99歳が学生の手本に。聴講申し込む高齢者も


 しゃんと背筋を伸ばし、じっと講義に耳を傾ける姿は、周りの若い学生の手本だ。一方、村川さんも、大学で若い学生と一緒にいると元気になれるという。「食堂へ行って食べてたかて、みんながわいわい言うてるのを見てたら楽しい」


 99歳の村川さんにとって勉強とは、物事を考えるために必要なものだ。


 「新聞を読んでるときも、勉強しとったら『こんなこと言うてるけど、この裏はどうやろ』と、いろんなことを考えることができる。(考えることが)自分の価値になる」





追記(2013年11月17日)


今日,以下の記事を知りました:


77歳の小学1年生 「学校で勉強したい」 札幌の浅野さん、市教委に訴え実現

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/504600.html


戦中戦後の混乱期、目の感染症で中傷され義務教育を受けられなかった札幌市白石区の主婦浅野京子さん(77)が、自宅そばの市立小学校で1年生と一緒に国語の授業を受けている。「もう一度、学校で勉強したい」。そんな思いを札幌市教委にぶつけ、実現した。文部科学省などによると、義務教育未修了者を既存の小中学校が受け入れるのは全国的にも珍しい。支援者は「他のまちにも広がる第一歩に」と期待している。


(中略)


 札幌で生まれ育った浅野さんは幼いころ、感染症で右目の視力を失った。「目腐れ」といじめられ小中学校に通えなかった。つくだ煮工場などで働いた後、結婚して3人の子どもを育てたが、読み書きができず、病院で問診票が書けないなど負い目を感じていた。「ばかにされるんじゃないかと、人に会うのも苦手でした」


 さまざまな事情で義務教育を受けられなかった人たちが通う自主夜間中学「札幌遠友塾」の存在を知ったのは74歳の時。「これだ」と、学びを再開した。


 この春で遠友塾の3年制コースを卒業した。詩集や絵本などを読めるようになったが「書くのがまだ苦手。基礎から、もっと学びたい」とスタッフに相談。正規の学校に通ってみたいとの思いもあった。遠友塾が、自宅そばの川北小で授業が受けられるよう市教委に要請し、受け入れが決まった。

(以下略)


素晴らしいニュースです.事情があったにせよ,77歳になってなお,学びたいという情熱を持ち続けることは並大抵のことではありません.そして,学ぶということが,人間を人間たらしめる本質であるということを,あらためて確信させられます.



追記(2013年12月31日)


tumblr 経由で以下の記事を知りました:


「7つの習慣」セルフ・スタディ・ブック 第一の習慣:

62歳の女性が、大学入学を反対されて答えた言葉――「3年たてば、何もしなくても65歳になるわ」

http://bizmakoto.jp/bizid/articles/0907/08/news004.html



フランクリン・コヴィー社の創設者の1人である、ハイラム・スミスは著書の中で、自分の母親について次のような逸話を紹介しています。


私の母は62歳のとき、ハワイ大学で第二の学位を取得しようと決心したのだが、そのことに同年齢の女性が異論を唱えたことがあった。その女性は母に対して、こう言った。

 「ルース、ばかげてるわ。学位を取るまで3年かかるんでしょう。3年たったら、あなたは65歳じゃないの」

 母はその女性のいったことをしばらく考えていたが、笑顔でこう答えた。

 「3年たてば、何もしなくても65歳になるわ」


これで本当に今年最後の更新です.真摯に学ぶ姿勢を持ち続ける来年でありたいと思っています.皆様,よいお年をお迎えください.




追記(2014年1月2日)


葛飾北斎については上記でも触れましたが,Wikipediaの葛飾北斎のエントリが興味深いので,いくつか引用します:


真正の画工と成るを得べし


嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように書き残されている。


翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す


これは、「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」との意味である。


富嶽百景


(中略)

広く世に知られているのはこの作品よりもむしろ、尋常ならざる図画への意欲を著した跋文(後書き)である。


己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし

七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり

故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん

願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし


「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」



追記(2014年3月17日)


今日,以下の記事がありました.


全盲男性、78歳で博士号=「多くの人の刺激に」―点字学び11年かけ・関西学院大

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140317-00000034-jij-soci


 64歳で失明した後に点字を学び、盲人福祉について研究を続けてきた兵庫県西宮市の森田昭二さん(78)が17日、関西学院大学大学院で博士号(人間福祉)を授与された。社会学部の聴講から博士号の取得まで11年。「自分の姿が目の不自由な人だけでなく、多くの人の刺激になれば」と、今後も大学に残り研究を続けるつもりだ。

 森田さんは京都大文学部を卒業し、大阪教育大付属池田高校などで国語教師として勤務した。生まれつき視力が弱かったが、38歳のときに白内障の手術を受けた後、視力はさらに低下。教科書などが読みづらくなり55歳で退職、64歳で完全に失明した。

 その後、白つえの使い方や日本語や英語の点字を一から習得。「盲人福祉の歴史を究めたい」と思い立ち、67歳から聴講生として関西学院大で学び始め、2007年に71歳で修士号を取得した。一度は落ちた後期課程に翌年合格し、学生らの文献朗読ボランティアなどの力を借りながら、6年かけて博士論文を完成させた。


もし私が失明したら,とても同じことができるとは思えませんが,力づけられました.全盲の国学者,塙保己一の偉業が思い起こされました(Wikipediaの塙保己一のページ).



追記(2015年9月25日)


二つの博士号を取得したということと,その1つは73歳での学位取得であるということ,いずれも本当に快挙であると思います.


定年退職後の73歳男性 博士号取得

9月25日 15時55分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150925/k10010247701000.html


鉄鋼メーカーを定年退職した後、大阪大学に通い、環境を守りながら鉱山から貴金属を取り出す技術について研究してきた73歳の男性が博士号を取得しました。

(中略)

姉崎さんは中学校を卒業後、集団就職で大手鉄鋼メーカーに勤務し、働きながら研究を進め30年前にも東京大学で博士号を取得し、今回が2つめの博士号になるということです。60歳で定年退職したあと、当時の大阪外国語大学でスペイン語などを学び、その後、大阪大学に5年間通って、環境を守りながら鉱山から金や銀を取り出す技術について論文をまとめたということです。

姉崎さんは、「若者とともに研究し、大いに刺激を受けた。社会で活躍したいと考えているシニア世代の突破口を開きたい」と話していました。



追記(2015年10月7日)


人生ということ,学ぶということについて思いをはせ,感動しました.


「定時制高校の教師時代に向上心を得た」

10月5日 23時43分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151005/k10010259971000.html


ノーベル医学・生理学賞を受賞することが決まった大村智さんは、大学を卒業後、一時、定時制の工業高校で教師をしていました。生徒たちが仕事のあとに勉強している姿を見てショックを受け、自分ももっと勉強しなければならないと思ったということで、記者会見では高校の教師時代の経験の大きさを語りました。

(中略)

大村さんは、仕事のあとに手が油で汚れたまま期末試験を受けていた生徒の姿を見てショックを受けたということで、受賞後の記者会見では、「こういうふうに勉強している人がいるのに、私はなんだと思いました。もっと勉強しなければいけないと思いました。何でも知っている先生になろうと思いました」と述べました。

東京理科大の大学院に進んだあとも昼は大学院で勉強し、夜は高校で生徒を教える日々が続いたということです。




追記(2016年3月19日)


仏の91歳女性、30年越しの論文完成で博士号取得

http://www.afpbb.com/articles/-/3080560


【3月16 日 AFP】フランスで、91歳の女性が30年執筆を続けていた博士論文を完成させ、同国の女性として最高齢クラスの博士号取得者となった。

(中略)

 ブルリエさんは執筆過程について「休み休み書いていたから、ちょっと時間がかかってしまったわ」と振り返った。


 博士論文のタイトルは「20世紀後半におけるブザンソンの移民労働者」。市内で教員として移民に読み書きを教えた自身の経験を踏まえた内容だ。


 ブルリエさんが博士号に関心を持ったのは1983年に退職した後のこと。フランスでは通常、博士論文を3年で書くが、指導教官のセルジュ・オルモー(Serge Ormaux)教授によるとブルリエさんは「極端に型にはまらない」学生だった。


60歳くらいから30年かけて博士論文を執筆したというのですから,驚きです.人間というのは,意志さえあればこうした偉業を成し遂げることができるのですね.私としても,非常に勇気づけられる話です.




追記(2016年12月5日)


ちょっと古い記事ですが,見かけたので.


京都造形芸術大を96歳で卒業、香川の平田さんギネス認定 - 産経ニュース

http://www.sankei.com/region/news/160616/rgn1606160045-n1.htm


趣味の陶芸の道を究めよう-と、11年がかりで単位を取得して今年春、京都造形芸術大(京都市)の通信教育部の陶芸コースを96歳と200日で卒業した高松市の平田繁實さんが、最高齢の大学卒業生としてギネス世界記録に認定された。認定証を手にした平田さんは「学ぶことは楽しい。素直にうれしい」と喜びを語った。


 平田さんは広島県北広島町出身で大正8年生まれ。戦後は、労働福祉事業団(現・労働者健康安全機構)に勤務。転勤などの関係で昭和46年に高松市に移り住んだ。退職後、通い始めた陶芸教室の仲間に勧められて大学進学を決意。平成17年4月に85歳で入学した。


96歳で学士とは,素直にすごいと思います.私は96歳まで生きることも無理でしょうね….それでも,死ぬまで何らかの形で学問に関わっていられたらとは思っています.



追記(2018年3月25日)


久しぶりの追記です.


88歳女性が博士号 国内最高齢の取得か 布文化の論文で

3月24日 17時27分

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180324/k10011377561000.html


縄文時代の布の編み方などを研究し、日本の布に関する文化についての論文をまとめた88歳の女性が、京都市の立命館大学から博士号を授与されました。大学によりますと、国内では最高齢の取得と見られるということです。


博士号を取得したのは、名古屋市にあった東海学園女子短期大学の元助教授、尾関清子さん(88)です。(中略)


尾関さんは各地で出土した縄文時代の布の編み方などを30年以上にわたって研究し、日本の布に関する文化の起源と特質をまとめた論文が大学の審査で認められたということです。


最近知り合いの不幸もあり,少しふさいだ気分もしてましたが,このニュースを聞いて,勇気づけられたような気がしました.




追記(2021年4月18日)


北斎については以前も書きましたが、以下のエントリが素晴らしかったです:


90歳の北斎が、死の間際に望んだこと。|太田記念美術館

https://otakinen-museum.note.jp/n/n7071a49ba076


(中略)

北斎は死の間際、こんな言葉を残しています。


翁死に臨み、大息し天我をして十年の命を長ふせしめはといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめは、真正の画工となるを得へしと、言訖(おわ)りて死す、

     ―飯島虚心『葛飾北斎伝』蓬枢閣、明治26年(1893)

あと10年、いや5年の命を与えてくれば、本物の絵描きになることができるのに、と。北斎は90歳という年齢でありながら、亡くなる瞬間まで、もっと長生きして、絵を描きたいと願ったのです。

(以下略)



私も、死ぬまでもがき続けよう。たとえそれが、みっともないと人から思われたとしても、私の人生だ。私が決める。



追記(2022年10月11日)

Knuth の、The Art of Computer Programming (TAOCP), Volume 4B -- Combinatorial Algorithms -- が予約可能になっていました!

https://www.amazon.co.jp/dp/0201038064/

内容も、Backtrack Programming, Satisfiability 等、楽しみでしかありません。

Knuth に ついては、以前エントリを書きました。その Knuth も、もう御年84歳です。その彼が、TAOCP を 60 年近く執筆を続け、とうとう Volume 4B の出版に至ったのです。この人は本当にすごい。

私も年齢を重ねるにつれ、正直焦ったり、自分の業績を考えてがっかりしたりすることが増えてきました。しかし、Knuth に比べれば、私なんてまだまだ若造です。まだまだこれから何十年も頑張ることができる。本当に勇気づけられました。



追記(2022年12月12日)

83歳で死ぬ直前まで数学の研究を続けてきた Paul Erdős の生涯は、その偉大な業績とともに、私を奮い立たせるものがあります。 https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Erd%C5%91s より:


Erdős published around 1,500 mathematical papers during his lifetime, a figure that remains unsurpassed.[5] He firmly believed mathematics to be a social activity, living an itinerant lifestyle with the sole purpose of writing mathematical papers with other mathematicians. He was known both for his social practice of mathematics, working with more than 500 collaborators, and for his eccentric lifestyle; Time magazine called him "The Oddball's Oddball".[6] He devoted his waking hours to mathematics, even into his later years—indeed, his death came only hours after he solved a geometry problem at a conference in Warsaw. 



追記(2023年2月27日)

本居宣長「古事記伝」に関する Wikipedia の記事から:

(注: 宣長は「古事記伝」を)1764年(明和元年)に起稿し1798年(寛政10年)に脱稿した。版本としての刊行は1790年(寛政2年)から宣長没後の1822年(文政5年)[1]にかけてである。


医学の修行のために上洛していた宣長は、1756年(宝暦6年)、27歳の時に店頭で『先代旧事本紀』とともに『古事記』の巻を購入した。この頃、宣長は『日本書紀』を読んでおり、賀茂真淵の論考に出会って日本の古道を学び始める。宣長が本格的に『古事記』研究に進むことを決意したのは、1763年(宝暦13年)の、私淑する真淵と「松坂の一夜」ではじめて直接教えを受けた頃である。その翌年、1764年(宝暦14年)から『古事記伝』を起筆し、間に『玉勝間』や『うひ山ぶみ』などの執筆も挟んで1798年(寛政10年)まで35年かけて成立した。


「うひ山ぶみ」は、心が折れたときによく読み返したりします。一度はブログに書いてみたいと思ってします。



追記(2023年7月19日)

ちょうどこの番組をテレビで見ていたのですが、胸を打つものがありました:

人生初の“通学”、新たな“夢” 全国で開校相次ぐ夜間中学 | NHK | WEB特集 | 三重県

川口さんは現在28歳、家庭の事情で小中学校に通うことができなかったそうです。そこで学校で学びたいと思った川口さんは、夜間中学に通い始め、新たな夢を持つに至ったのでした:

(中略)先生やともに学ぶ仲間達との学びの経験を通じ、川口さんには新たな“夢”ができました。

「教員免許をとって自分と同じような境遇の人をサポートしたい」というものです。


川口さん 
「私のように大人になって学びたいけど学べないという人も多くいます。学ぶ場所がない、時間がない、お金がないなどさまざまな理由があると思いますが、そういう人たちが気軽に誰かに質問できたり、勉強を教えてもらえたりできる場所を、将来作っていきたいと思います」

 

夜間中学に通う生徒には、さまざまな人生があります。だからこそ、そこでは、人にとって学びとは何かということを、鮮やかな輪郭をもって語りかけているように思うのです。






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