投稿

5月, 2009の投稿を表示しています

山月記 (中島敦)

本屋やネットなどで,泣ける話の特集といったものを定期的に見かける.それなりに需要があるのだろう.そこで,私にとって泣ける話や小説はなんだろうかと考えているうちに,ある小説の書評を書いてみたくなった.泣ける話とは趣旨がずれるのだけれども,私には,読む度にいつも一滴(ひとしずく)の大きな涙を感じる小説がある.それが,中島敦の山月記なのである. 山月記は高校の国語教科書などに採録され,多くの方が一度は読んだことがあるのではないだろうか.特に,冒頭の格調高い一文は,人口に膾炙している名文の一つとして数えられるだろう. 隴西(ろうさい)の李徴は博学才穎(さいえい),天宝の末年,若くして名を虎榜(こぼう)に連ね,ついで江南尉に補せられたが,性,狷介,自ら恃むところ頗(すこぶ)る厚く,賤吏に甘んずるを潔しとしなかった. 簡にして要を得た硬質な文体で,山月記は綴られる.だが,その物語は,このような格調高い文体とは裏腹に,読む者の心をえぐるかのように続いていく. 山月記の主人公李徴は,自らの才を恃み,官職を辞して詩人として名を残そうとする.しかし,文名は容易に揚がらず,その間にも,彼が以前愚物として歯牙にもかけなかった連中が出世していく.自ら恃みとする才能への懐疑と絶望,俗世間で成功した同輩への羨望,そして,自らの人生への後悔.それらは次第に李徴の心をむしばんでいく.そして遂には李徴は発狂し,虎に身を変えてしまうのである. その後,虎となった李徴は旧友の袁傪(えんさん)に遭遇し,変わり果てた自らの身の上について思いを吐露する.李徴を虎に変えたものは何だったのか.それは,己の心の内で飼い太らせた,臆病な自尊心と尊大な羞恥心だったのである.それこそが虎だったのだ. 己は詩によって名を成そうと思いながら,進んで師に就いたり,求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった.かといって,又,己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった.共に,我が臆病な自尊心と,尊大な羞恥心との所為である.己の珠に非ざることを惧(おそ)れるが故に,敢て刻苦して磨こうともせず,又,己の珠なるべきを半ば信ずるが故に,碌々として瓦に伍することも出来なかった.己は次第に世と離れ,人と遠ざかり,憤悶と慙恚(ざんい)とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった.人間は誰でも猛獣使であり,その猛獣