或る「小倉日記」伝 (松本清張)

昔,小倉 (福岡県北九州市) の近辺(?)に住んでいたことがあった.おととし,小倉に行く機会があり,時間があいたついでに,松本清張記念館を訪れてみた.この記念館は,小倉城のすぐそばにある,瀟洒な建物である.今回は,松本清張の「或る『小倉日記』伝」(新潮文庫)について書いてみたい.


松本清張は,1909年北九州市小倉北区(旧小倉市)に生まれた.41歳で懸賞小説の「西郷札」が入選するまで,様々な職に従事したようだ.清張はその後,1952年に「或る『小倉日記』伝」を三田文学に発表する.この作品は翌年芥川賞を受賞し,これにより松本清張は作家としての地歩を固めた.この年清張は44歳であるから,作家としては遅咲きということになるのかもしれない.いずれにせよ,この作品に,後の清張作品に繰り返されるテーマの多くを見出すことができる.


「或る『小倉日記』伝」は,主人公田上耕作とその母ふじの物語である.耕作は,生まれながらにして障害を持っていた.いわゆる小児麻痺(脳性麻痺)らしい.この症状は,耕作の生涯を通じ,一向に改善することはなかった.


耕作が6歳になったころ,「伝便」屋の老夫婦一家の思い出があった.伝便は小倉独自の風俗で,すぐに手紙を届けたい,あるいはちょっとした品物を気軽に送りたいといった,郵便よりも小回りや融通をきかせたい状況で,それらを送り届けてくれる商売である.耕作は,伝便の爺さんの鈴の音を聞くのが好きだった.


じいさんは朝早く家を出ていって,耕作がまだ床の中にいるころ表を通った.ちりんちりんという手の鈴の音はしだいしだいに町を遠ざかり,いつまでも幽かな余韻を耳に残して消えた.耕作は枕にじっと顔をうずめて,耳をすませて,この鈴の音が,かぼそく消えるまでを聞くのが好きだった.


伝便屋のこの哀しい鈴の音が,物語を貫く一つの糸となる.


中学に進学しても耕作の身体の不自由は相変わらずであったが,その頭脳はずば抜けて優秀であった.この,重い障害と明晰な頭脳,それこそが耕作の悲劇的な生涯の根源だったのである.


そのころ(昭和13年頃),鴎外全集が出版された.しかし,鴎外の「小倉日記」は散逸していた.それを知った耕作は,小倉時代の鴎外を知る関係者を探して回り,その空白を埋めようと思いたつ.これは,頭脳明晰でありながら,重い障害を持った耕作の,唯一の自己実現と思えたことであろう.耕作とふじは,それにすがるようにして生きていく.だが,物語は残酷な結末を迎えるのであった.


「或る『小倉日記』伝」では,執拗なまでに耕作とふじの不幸な状況が描かれる.作者はまるで,ある暗い情念の焔に突き動かされているかのようである.才能がありながら不遇であった,清張の前半生が耕作に投影されているのかもしれない.最初にこの作品を読んだとき(大学生くらいのときであろうか),作者の投げかける重苦しいものに,胸をふさがれるような思いがした.


しかし,このエントリを書くために再読したとき,印象は異なっていた.耕作は,身体に重い障害があるにせよ,優れた頭脳と強靭な精神力を持っている.また,耕作の能力を認める知人がおり,献身的に支えてくれる美しい母ふじがいる.だが,現実にはそうした状況は稀であろう.耕作ほどの能力や意志力すら持っていないことが一般的で,現実はより救いがないといえるのかもしれない.そういう意味で,この作品に描かれる悲劇はどこまでも文学的である.こう感じるのは,この作品の完成度が高い故もあろう.


ただ,この作品をいつ読んでも変わらない思いというのもある.それは,小倉という町に対する郷愁のようなものである.この作品に流れる伝便屋の哀しい鈴の音とあいまって,それは物悲しい色を帯びてしまう.しかし,この作品に対する私のこのような思いは,誰とも共有されることはないかもしれない.



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