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3月, 2013の投稿を表示しています

博士号取得者が高校教師になるということ

今月は別のエントリを書く予定だったが,時間的に難しそうなので,その内容は4月以降にして,教師ということについて書いてみたい.これは,以下のような,考えさせる記事を読んだからである.なお,私は理系の人間なので,このエントリの内容は,理系の話に限定させていただきたい. 「高学歴ワープア」から高校教師というキャリアパスはどうか? http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/03/post-543.php 昔から,大学にポジションを見つける(いわゆる,アカポスに就く)ということは難しかったが,特に最近は,厳しい状況になっている.このような情況は,数学や物理といった,基礎分野で特に顕著である.たとえば,今の若手の助教の公募は,基本的に3年から5年の任期付きで,テニュアトラックがあれば御の字というような厳しい内容であるが,それでも,応募倍率が100倍を超えるケースはよく聞く.数学や物理の分野で博士号をとれるというのは,極めて優秀な頭脳を持っているということであるが,それでも,アカポスにつくことは非常に困難なのである.このような事情は,企業の研究所についても同様である. したがって,博士号を取得したとしても,自分の好きなように研究を続けていける人は少数だろう.多くの人が,程度の差こそあれ,意にそまない仕事についていると考えられる. こういった状況であるから,博士号取得者のキャリアパスとしての高校教師というのは(高校の教師も狭き門ではあるが),いろいろと議論はあっても,やはり考慮に入れるべきことではないだろうか.そして,私は,そのような人は,生徒にとって素晴らしい教師になれると信じているのである. このことについて,はてな匿名ダイアリーで,以下のような記事があった: 良い研究者は良い教師ではないかもしれない http://anond.hatelabo.jp/20130205153622 さらっと書かれているが,この記事にはとても共感したので,よく覚えている.私が教えを受けた高校や大学の先生の中で,今でも記憶に残っているのは,やはり,その科目や専門分野を先生自身が面白くまた大好きだと思っているような先生方である.そのような先生方の授業には,情熱があったし,そのことに刺激や感銘を受けたものであった.教育において最も大事なのは,そのような情熱ではないだ

名前をつけてやる (スピッツ)

先日,「 名前について 」というエントリを書いたのですが,それで,スピッツの「名前をつけてやる」という曲のことを思い出しました. スピッツといえばほとんど草野マサムネですが,その詩には独特な感性があるのと,声が好きで,結構長い間聴いています.この曲はスピッツでも初期のころの曲ですが,やはりいい曲ですね.

名前について

年度末で忙しく,本ブログも放置気味である.しかし,twitter 等で,更新を楽しみにされている方がいらっしゃることが分かったので,まとまりがない内容であっても,とにかく更新を心がけるようにしたい.今月は,少なくとももう一つ書いてみたいと思っている. そこで本題であるが,はてなブックマークにあがったエントリで,いわゆるDQNネームに関するものを見かけた.DQNネームとは何であるか,また,具体的にはどのエントリか,といったことについては,あまり愉快な内容ではないので,これ以上は言及しない.ただ,そのエントリを読んで,名前をつけること,名前を呼ぶこと,そして,そもそも名前というのは何であるか,といったことについて考えることがあったので,ここに書いてみたい. 名前というのは不思議なものだ.単純に考えれば,それは,人を区別するためのラベル,識別子にすぎない.しかしながら,名前というものは,それにおさまらない神秘性をもつのである.これは以前,はてなの某日記にも書いたのだけれども,名前の持つ神秘性ということについて思いを致すとき,私は,ゲド戦記のことをいつも思い浮かべてしまうのである. このゲド戦記の世界観について,Wikipedia から引用してみる ( Wikipedia: ゲド戦記 ): この世で最初の言葉を話したセゴイによって海中から持ち上げられ創られたと伝えられる、太古の言葉が魔力を発揮する多島世界(アーキペラゴ)・アースシーを舞台とした魔法使いゲドの物語。 アースシーのうち、主にハード語圏では森羅万象に、神聖文字で表記される「真(まこと)の名前」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名で呼び合う。 名前というものが持つ魔力や神秘性を,これほど見事に生かした物語は他にないのではないだろうか.なお,このような名前に関するタブーというものは,世界各地にあったらしく( Wikipedia: 諡名 の,「実名敬避俗」の節を参照),ゲド戦記ももともとはそれを参考にしたものかもしれない. そこで,このような名前をつける,あるいは,名前を呼ぶということの神秘性については,古来,さまざまな文学作品がそのことをテーマとしてきた.それについては,いろいろと思い浮かべる作品があり,今後このブログでおいおい書いていきたいと思うのだが,