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長く生きるということ、そもそも生きるということ

以下のような記事を見た: ジャーナリスト佐々木俊尚氏流、「人生100年時代」をより軽やかに生きるためのコツ。 | リクルート - Recruit https://www.recruit.co.jp/meet_recruit/2018/04/sc10.html これをきっかけに、最近思っていることなどブログに書いてみたい。なお、以下に書く内容はいわば備忘録のようなものであるから、上記記事とはあまり関係がない。 諸般の理由もあり、最近、ある老人たちを見かける。この老人たちを見るたびに、正直言うと、複雑な気持ちになる。それは、長く生きるということに対する複雑な思いである。 長く生きるということは、人類の夢である。私でも、長く生きて、科学の進展をみてみたいという思いは強くある。毎日新しい技術が生み出される。たとえば、世界は10年前と比べ、どれだけ変わったか、便利になったか。それにささやかながらも関わることの喜びがいかばかりか。世の中は、わくわくするような出来事に溢れている。 一方で、長く生きるということは、心躍ることばかりでもない。長く生きるということは、言うまでもなく、老いに直面するということでもある。 この高齢化社会のことであるから、読者の皆さんも、何らかの形で老人と接したことがあるだろう。老人とは、老いのもつ、生きるということの影を体現する存在でもある。 認知症の老人。一人では起き上がることもできず、1日中寝たきりの老人。そこまでなくとも、気力もなくてテレビだけを見続ける老人。 一体、生きているということは如何なることであろうか。そして、私はそこまでして長く生きたいだろうか。 この老人たちは、たとえずっと先の話だとしても、すなわち年を取ったときの私である。そう思えば、そのとき浮かび上がってくる感情は、ありていに言えば、恐怖である。 (実は、これは私自身がもつ差別心の表れかもしれない。これについては、別エントリで書いてみたい) しかし私は、卑怯かもしれないが、これ以上自分の心理に立ち入ることはしない。私は、老いの不安とともに生きていくことを選ぶ。ただ、太宰治の「斜陽」から一節を引用するに止めておく。 ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じように、こうでもしなければ、生きていかれないのかも知れない。人はこの世の中に生れてきた以上は、