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人生論ノート (三木清)

「人生論ノート」を初めて読んだのは、高校生くらいのときだったろうか。おそらく、ある世代には本書が必読書とされていたという、そんな話を小耳にはさんだのが、読むきっかけだったように思う。 しかし、ここに書いてある思想は、当時の未熟な私には響いてこなかった。必読書という言葉の押しつけがましさにも、反感を覚えたような記憶がある。 そんな記憶さえおぼろげになるくらい、昔の話である。時間がたつのは早いものだ。当時と比べれば、私は成熟したところもあれば、衰えたところもあるだろう。少なくとも言えることは、今の私は、長く世間の塵埃にまみれてきたということだ。そのせいなのか、改めて「人生論ノート」を読み返してみると、琴線に触れることが多くある。それは、若いころの私には思いもつかないことであった。 たとえば、「希望について」という章がある。そこには、以下のような文章がある:  人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は、運命と称している。もし一切が必然であるなら、運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら、運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっているゆえに、人生は運命なのである。  希望は運命のごときものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら、希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら、希望というものはまたあり得ないであろう。  人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって、生きていることは、希望を持っていることである。 私は、戦慄しながらこの文章に共感する。 我々は、成功したときは自らの実力を誇るだろう。一方で、失敗したときは、その原因を不運に帰するものである。しかし、ありていに言えば、いずれの場合も運によるところが大きいのだ。そして、そのような積み重ねが運命である。我々は、こうして運命の下で生きていくしかないのである。 では、我々は、計り知れない運命に翻弄されながら生きていくしかないのか。人間とは、暴力と見まがうほどの運命の前では無力な存在でしかないのか。 私は、この問いに対して、そのとおりとしか言えない。しかし、荒れ狂う運命の波間に、希望というものが確かに存在