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6月, 2015の投稿を表示しています

線香の火を消さなかった人

本ブログもめでたく(?)10周年の区切りを迎えた(参照: 「 ブログ開設10周年となぜブログを書くかということ 」).以前から,更新頻度が少ないことが気になっていたので,今後はちょっとしたことでもエントリを書くようにしたい. 最近,国立大学の人文系学部廃止の方向性が文科省によって提示されている.たとえば,以下のような記事である. 教員養成系など学部廃止を要請 文科相、国立大に :日本経済新聞 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08HCT_Y5A600C1CR8000/ 下村博文文部科学相は8日、全国の国立大学法人に対し、第3期中期目標・中期計画(2016~21年度)の策定にあたって教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院の廃止や転換に取り組むことなどを求める通知を出した。(以下略) これについては,大学教員を始めとしてネットでも非難轟々といった趣である.私もいろいろと思うところはあるが,自分の人生も顧みて,少しだけ所感を述べてみたい. 中谷宇吉郎は,寺田寅彦の言葉にもとづいて,「線香の火」という大変短い随筆を書いている.  昔,寺田(寅彦)先生が,よく「線香の火を消さないように」という言葉を使われていた.  大学を新しく卒業して,地方の中学校すなわち今の高等学校などへ赴任する学生が,先生のところへ暇(いとま)ごいに行くと,先生はどういうところへ行っても,研究だけは続けなさいと諭(さと)された.「地方の学校へ行くと,研究の設備などは,もちろん少ないだろう.研究費だってほとんどないだろうが,その気さえあれば,研究はできるものですよ.設備や金がなくてもできる研究というものもありますよ.一番いけないのは,研究を中絶することなんだ.何でもいいからとにかく手をつけて,研究を続けることが大切です.一度線香の火を消したら駄目ですよ」 そして中谷はこう断言するのである. 研究者として成熟した人は,線香の火を消さなかった人である. このように書くと,じゃあ文系学部を廃止しても,研究を続ければいいのかと早合点されるかもしれない.それはこのエントリの本意ではない. 寺田寅彦は,研究費が足りないから研究が出来ない,あるいは雑用が多いから研究が出来ないと不平を言うことを戒めた(中谷「指導者としての寺田先生」等より).年を取るにつれてマネジメント系の仕事

ブログ開設10周年となぜブログを書くかということ

ウェブリブログから年に一回の恒例のメールが送られてきましたので,恒例のエントリを書いてみたいと思います. 日付: 2015/06/18 8:03 件名: 祝ブログ開設10周年! ○━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━●            ブログを開設してから、もうすぐ10周年!! ●━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━○ ウェブリブログに登録してから、あと2日で10周年になります。 ウェブリブログ事務局のまーさです。 ご利用いただき、ありがとうございます!     A Day in the Life       http://dayinthelife.at.webry.info/ この10年間にあなたのブログで生み出された訪問回数は・・・     394860 件 になります。 (以下略) なんと,このブログも,開設10周年となりました.10年! …感慨深いというよりも,呆然とするような時間がたってしまいました. もちろん,数ヶ月前に「 ブログを三か月更新しなかった 」というエントリを書きましたし,ここ五年くらいは月に一本を下回る頻度でしか更新してないので,本当に続いているかどうかは私自身大いに疑問ではあります.しかしながら,ブログをやめるつもりは全くなく,細々ながらも書いていくつもりなので,続いていると強弁したいと思います. それにしても,なぜこんなに長く続けてこられたのか.なぜブログを書くのか.ブログの世界は死屍累々で,面白かったのにすっかり更新されなくなったブログは,数知れないほどです (逆にいうと,つまらない内容だからこそ長く気楽に続けてこられたのかもしれない).私は日記のたぐいは文字通り三日坊主で,このブログを開設したときも,こんなに長く続くとは予想すらしませんでした. 結局ブログを書くということは,やはりある種の創作意欲や衝動の発露であるとはいえると思います.そうしたことは,小説家や詩人がときに書いたりしており,たとえば高村光太郎の「自分と詩との関係」などの文章を思い出すのですが,ここでは芥川龍之介の「はっきりした形をとるために」という小文から引用したいと思います.これは,編集者中村武羅夫による,なぜ創作するのかという問に,芥川が答えたものです.芥川はその問に,「書きたいから書くのだ」と,ざ

不機嫌ということと読書について

twitterでも呟いたのだが,中年になってくると,たとえば読書についても,残りの人生であと何冊読めるかといったことを,ぼんやりとでも考えるようになる(こうした思いについては,本ブログのエントリ「 若い頃にしかできないこと 」にも書いた).そうすると,浅ましい考えではあるが,面白くもない本を読む時間がもったいないと思うようになるのである.露悪的に下品に言えば,「外れ」の本を読みたくなくなるということだ.本だけでなく,音楽についても似たような思いがある. 一方で,映画,漫画,ゲームなどについては,そこまで切迫した思いはなく,「外れ」(失礼だが)にあたってもそれほど気にならない.気にせずに,どんどん新しいものにチャレンジしていきたいと思っている.これはおそらく,読書のほうが自分にとっては大事な趣味ということだろう. こうした思いから,古典とよばれるものを意識して読むことが増えた.古典は,時代の風雪に耐えて生き残ってきただけに,(古色蒼然とはしていても)どれもそれなりに面白く,いろいろ考えさせることも多い.たとえば最近読んだものだと,ゲーテの「ファウスト」,「若きウェルテルの悩み」などが出色だった.これらは高校か大学のときに読んだものであるが,当時よりも今回の方がはるかに面白く感じてしまった.もともと昔は(今も?)頭が悪かったのかもしれない. 特にこのエントリでは,「若きウェルテルの悩み」から,本筋とはあまり関係ないが,いくつか引用してみたい.そのきっかけとなったのは,以下のような記事を読んだことである. 不機嫌がなぜいけないか。「ピカソは本当に偉いのか?」に書いてあった|篠田真貴子|note https://note.mu/hoshinomaki/n/nd998e3cd1998 この記事はいろいろと考えさせるところがあったのだが,「若きウェルテルの悩み」でも,不機嫌について論じているところがある.ある場面で,ウェルテルは,不機嫌ということを手ひどく攻撃するのである. われわれ人間はいい日が少なくって悪い日が多いとこぼすが,ぼく(注: ウェルテルのこと)が思うにそれはたいてい間違っている.もしわれわれがいつも,神が毎日授けてくださるいいことを味わう率直な心を持っていられたなら,たといいやなことがあっても,それに堪えるだけの力をもつことができるだろう. 不機嫌というやつは怠