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ポラロイド写真と福山雅治の Squall

このブログは時期を外した話題に触れることが多く,恐縮するのだが,やはりこの話は書いておきたい. ポラロイド社が,今年の夏にインスタントフィルムの生産を中止するということである. ポラロイド、インスタントフィルムの発売を今夏に終了:ニュース - CNET Japan http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000056025,20367968,00.htm 残念なことである.ただ,上記の記事によれば,ポラロイドは,デジタルインスタント製品の開発も行うとのことである.今後どうなっていくのかは分からない. 誕生日会やパーティなどでポラロイド写真を撮り,それにマジックでメッセージを書き込んだといった経験を,多くの方がお持ちのことだろう.私も,ポラロイド写真といえば,今までの人生における様々な楽しかった場面を思い出し,懐かしい感じがする. そして,ポラロイドといえば,福山雅治作詞作曲の「Squall」という曲を思い出す. Squall http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=65491   (うたまっぷ) 個人的なことになるのであまり書かないが,この曲には本当に思い入れがある.この曲は,松本英子が歌ったものが一般的には有名なのかもしれない.しかし私は,福山雅治自身が歌った曲の方が好きだ.そして,この曲を聴くとき,そのポラロイド写真のくだりになると,自分のいろいろな思い出が呼び起こされ,しみじみ共感してしまうのである.多くの人にとってポラロイドとは,そういう思い出に結びつくものなのではないだろうか. アナログからデジタルへというのは世の中の流れだろう.ポラロイドのインスタントフィルム生産中止というのも,その流れの一つに過ぎないのかもしれない.私としてはただ,Squall の歌詞におけるポラロイド写真のニュアンスが忘れ去られるとしたら,淋しくなるなと思うばかりである.

Google に関する雑感

既に過去の話題になってしまったが,10日ほど前,ウェブリブログが Google 検索に引っかからないような状態だったようだ.今は復旧した模様である.この件に関するウェブリブログの運営のアナウンスは,以下のとおりである.ただ,原因についてはよく分からない. (2/7)Googleの検索結果に表示されない★復旧しました★ http://info.at.webry.info/200802/article_4.html 私はまめにアクセスログをチェックする方ではないので気付かなかったのだが,確かに2月4日あたりから数日間アクセスが明らかに減っていた.通常の2/3程度くらいのページビューになっていたようだ. ざっとウェブを見た限りでは,この件はちょっとした話題になっていたようで,上記の運営ページのトラックバックやコメントを見るだけでも,ユーザの皆さんの混乱の様子がうかがい知れる.Google 検索が現在のウェブに如何に大きな影響を及ぼすかということを,改めて実感させられる. そこで,ちょっと気になったので,現在の検索エンジン各社のシェアについて調べてみた.おそらく,最も新しい調査は下記のものだろう. [PDF] Nielsen Online Announces December U.S. Search Share Rankings http://www.nielsen-netratings.com/pr/pr_080118.pdf このレポートは,Nielsen が今年の1月18日に発表したもので,2007年12月のアメリカの検索エンジン各社のシェアに関する調査である.その一部を抜き書きしてみると,以下のようになる. 検索エンジン 検索回数 (単位: 1000回) シェア 1 Google Search 4,062,536 56.30% 2 Yahoo! Search 1,273,688 17.70% 3 MSN Live Search 995,899 13.80% もちろん,この調査の正確さについては議論があるかもしれないが,少なくとも傾向はつかめるだろう.ただし,日本におけるシェアは異なっているのではないかと思われる. 上記の表で明らかなように,Google, Yahoo!, MSN Live の上位3社でほぼ90%近いシェアが占められている.その中でも,Google は

孤独地獄 (芥川龍之介)

今日は別のエントリを書こうと思ったのだが,ちょっと気が変わったので. 某ブログのエントリで,「人生は楽しんだ者が勝ち」といった内容を読んだ.確かにその通りであろう.そのことについて反論するつもりはないが,こういったエントリを読むと,芥川龍之介の短編「孤独地獄」のことをときどき思い出す. 「孤独地獄」の主要な登場人物は,津藤と,禅寺の住職禅超の二人である.いずれも幕末の大変な通人で,特に禅超は,出家にもかかわらず酒色をほしいままにしてきたらしい.二人は,吉原の玉屋でひょんなきっかけで知り合ったのだった. ある日,津藤は,禅超の様子がおかしいことに気づく.そのこともあって二人はいつになくしんみりとした話をするのだが,その際禅超は以下のような話をするのである. 仏説によると,地獄にもさまざまあるが,およそまず,根本地獄,近辺地獄,孤独地獄の三つに分かつことができるらしい.それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄(なんせんぶしゅうのしもごひゃくゆぜんなおすぎてすなわちじごくあり)という句があるから,大抵は昔から地下にあるものとなっていたのであろう.ただ,その中で孤独地獄だけは,山間曠野樹下空中(さんかんこうやじゅかくうちゅう),どこへでも忽然として現れる.いわば目前の境界(きょうがい)が,すぐそのまま,地獄の苦艱(くげん)を現前するのである.自分は二三年前から,この地獄へ堕ちた.一切の事が少しも永続した興味を与えない.だから何時でも一つの境界から一つの境界を追って生きている.勿論それでも地獄は逃れられない... 放蕩三昧で,遊びという遊びを極めた禅超が至った境地が孤独地獄だったのである. このエピソードが,私には強烈な印象となって残っている. 世の中にある,エピキュリアン的な姿勢に常に影のようなものが寄り添うのはなぜだろうか.快楽を尽くしても孤独と絶望の影は消えない.むしろ,快楽を求めるのは,孤独と絶望から目をそらすためであるかのようである. このような孤独というものは,無視できない重みをもって誰の胸にもあるようなものではないかと思われる.そう考えると,快楽よりも孤独のほうが人生の本質に近いのかもしれない.そんなことをふと思って,人間は哀しいと感じることがあるのである.