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子供に見せるべき作品について

ある男の子との約束で,今日休みを取り,映画「ポケットモンスター ミュウと波導の勇者 ルカリオ」を見に行った(波導はママ).その子は喜んでいたが,正直こんなものかという感じ.疲れていたせいもあるが,ところどころ爆睡してしまった.日本アニメの文化論やその海外での注目度などが喧伝されているが,ことこのアニメに限って云えば,それほどクオリティが高いとは思われない.ただ,新聞報道などによれば,中国や韓国のアニメなどの追い上げもあり,日本でのアニメ製作現場は予算や労働条件等かなり過酷な状況にあるらしいので,その点は勘案しなければならないのかもしれない. アニメに限らないが,子供に見せるものこそ高いクオリティが求められるのではないだろうか.いわゆる「高尚な」もの,「教育的な」ものばかりを子供に見せるべきと言っているわけではない.世の中によくある,親が子に見させたい番組/読ませたい本というのは,あくまでも親の視点から子供に与えたいものであり,得てして親が自己満足できるというのが要件になっている作品ばかりであることが多い.つまりそこには子供からの視点は無いのである. しかしながら,これだけは言えるのではないだろうか.すなわち,子供に見せるべきクオリティの高い作品は,一流の作者でなければ作れない.これは,童話や児童文学などについて考えれば分かる.小川未明しかり宮沢賢治しかり新見南吉しかり.アニメを見てからの思いなので,児童文学は関係ないといえばそうなのだが,今日はそのことを痛感した.子供に見せるものこそ,子供だましであってはならないのである. ただ,では子供にとってクオリティが高い作品とは具体的にはどういうことか,と問われれば,残念ながら明確な答えをもっているわけではない.おそらくそんな定義は出来ず,個別に作品をあげるしかないのかもしれない. 今日一緒に映画に見に行った子は11歳であるが,そのくらいの子に見せたいというアニメ映画といったら,ドラえもんの映画だろうか.私が見たのは10年前くらいで,何作かだけだが,それでもあのクオリティは最高といえるのではないだろうか.少なくとも11歳の子に見せるという条件付では.もちろん,もっといい作品はあるかもしれない.しかし,少なくとも当時の私(もう子供ではなかった)は,そのクオリティの高さに大変感動したものであった. また,この記事を書いていて,以

青が散る (宮本輝)

以前のエントリ (「 蛍川 」) に引き続き,宮本輝の作品について.宮本輝の作品には思い入れがあるものが多く,このブログで次にどれを取り上げようかと考えるとき,いろいろと迷ってしまう.そんな中でも,今回は宮本輝の「青が散る」(文春文庫)について書く. 「青が散る」は,大阪郊外の新設私立大学を舞台とした,椎名燎平とその仲間たちの青春小説である.この大学は,宮本輝が卒業した追手門学院大学がモデルと思われる.しかしながら,作者自身によるあとがきによれば,「青が散る」は自伝小説ではなく,「青春という舞台の上に私が思いつくまま作り上げた虚構」であるとのことである.ただ,そのあとがきにもあるように,宮本輝は大学の4年間,来る日も来る日もテニスに打ち込んでいたとのことであり,その経験に裏打ちされたところはあるだろう. 主人公の椎名燎平は,ひょんなきっかけでテニスを始めることになる.燎平とその友人は,来る日も来る日もテニスに打ち込む.そんなテニスに明け暮れる毎日での,燎平と男友達の,夏子や裕子をめぐる恋.特に,夏子に対する燎平の思いは,歯がゆいくらいに一途で,不器用である.このような燎平の人となりは,辰巳教授が燎平に与えた2枚の色紙に書かれた言葉,「潔癖」と「王道」によって見事に表されている. このような,「若さという不思議な力」に満ち溢れた,あざやかな「青春の光芒」を象徴的に表すのが,燎平が初めて会ったころの夏子の瞳の色であろう.燎平の友人金子は,夏子に初めて会ったとき,その瞳の色を興奮気味にこう語る. ・・・ 金子はそれに答えず, 「あいつの目,緑色やったぞォ.」 と言った. 「緑色?」 「うん,何や黒いような青いような,けったいな目をしてた.あの目にじっと見られてるうちに,頭がかあっとしてきたんや」 ・・・ しかし,燎平とその仲間達の生活は,無邪気に明るいばかりのものでは決してなかった.この物語の登場人物は皆,心の奥底に,決して消し去ることのできない哀しみを抱えている.若さと輝きが溢れる青春時代にも,その暗い影は折に触れて頭をもたげてくる.その最も端的な人物造形が,安斎克己であろう.安斎は天才的なテニスの才能に恵まれながら,自分の血に流れる狂気の予感を抑えることができない.ついには,発狂の恐怖に耐えられず,自殺してしまうのである (話はそれるが,私はこの挿話に夏目漱石的なもの

イカロス (三島由紀夫)

ある晴れた夏の日,山に車で行った.休憩のとき,車から降りると,空の青と入道雲の白が眩しかった.そこから見える平野部の町並みの景色が素晴らしい.なんとはなく,感傷的な気分になった.そして,ふとイカロスの神話について思った. この時代,アテナイ人は,クレタの王ミノスに納めるべき生贄のことで悩まされていた.生贄は7人の少年と7人の少女であり,人身牛頭の怪物ミノタウルスの餌食となるのである.ミノタウルスは,名工ダイダロスがクレタ島に作った迷宮(ラビュリントス)に飼われていた.この迷宮は大変巧みに出来ており,いったん迷い込んだが最後,その出口を見つけることは不可能であったという. この怪物ミノタウロスを退治するために,アテナイの王子テーセウスがやってくる.テーセウスと,ミノス王の娘アリアドネは恋に落ちる.アリアドネは,ミノタウルスを倒すための剣と,一つの糸鞠をテーセウスに与える.この糸鞠は,迷宮を脱出するための手段としてダイダロスが作ったものであった. テーセウスは首尾よくミノタウルスを仕留め,アリアドネとともにクレタ島を出奔する.しかし,アテナのお告げにより,アリアドネをナクソスの島に置き去りにして,テーセウスはアテナイに帰ってしまう. 一方で,ダイダロスの振る舞いに激怒したミノス王は,ダイダロスとその息子イカロスを塔に監禁する. ダイダロスは,イカロスとともにこの塔を脱出するため,鳥の羽を集め,糸と蝋で固めて翼を作る.父子はこの翼で空を飛び,塔を脱出した.ダイダロスはイカロスに言う.「イカロスよ,空の中ほどを飛ばなければいけないのだよ.あまり低すぎると霧が翼の邪魔をするし,またあまり高すぎても熱気で溶けてしまうから,私のそばにくっついておいで・・・」 しかし,イカロスは有頂天になり,父の命に背き,天高く翔けて行く.やがて太陽の熱で,翼をとめていた蝋が溶けてしまい,ばらばらになってしまう.イカロスは墜落し,青海原の真ん中に落ちて死んだ.この海は,イカロスの海と呼ばれることになった.また,ダイダロスが嘆き悲しんでイカロスの遺体を葬った土地はイカリアと名づけられたという. この神話に何か寓意があるとすれば,いろいろと考えることが出来るだろう.旧約聖書におけるバベルの塔の逸話のように,神の高みを目指した人間の僭越や冒涜とも思えるし,鳥のように空を飛んでみたいという人間の希求,その

無限の下降

idea*idea http://www.ideaxidea.com/ の記事「ダンス!ダンス!ダンス!」 http://www.ideaxidea.com/archives/2005/07/post_26.html で知ったフラッシュ. http://www.izpitera.ru/lj/tetka.swf (追記: 2005年11月1日現在,上記フラッシュはリンク切れとなっているようです.Google で探せばいろいろとアーカイブがあるようで,たとえば http://soap.chattablogs.com/archives/flash/tetka.swf で見つかるようです) 女性が,球体の障害物にぶつかりながら,重力に従って落ちていく.結構リアルである.こういった人体の動きは簡単にシミュレートできるものなのか. よくできてるものだと感心しながら見ていたが,しばらくするとくらくらしてきた.一人の人間が,なすすべもなく永遠に落ちていくのである.それはあたかも,あくまでも無力な一人の人間に与えられた罰のようにさえ思われてしまう.落ちていく,永久に... 小さいころ,「板子一枚下は地獄」という諺を初めて知ったときに感じた怖さに通じるものがある.自分の下にある底なしの暗闇.恐怖の最も根源的な形かもしれない. いかんいかん考えすぎだ.ともかく,これを見て,金子光晴の有名な詩「落下傘」を思い出した. (中略) 月や虹の映る天体を ながれるパラソルの なんといふたよりなさだ. だが,どこへゆくのだ. どこへゆきつくのだ. おちこんでゆくこの速さは なにごとだ. なんのあやまちだ. (中略) ゆらりゆらりとおちてゆきながら 双(ふた)つの足うらをすりあはせて,わたしは祈る. 「神さま. どうぞ.まちがひなく,ふるさとの楽土につきますやうに. 風のまにまに,海上にふきながされてゆきませんやうに. 足のしたが,刹那にかききえる夢であつたりしませんやうに. 万一,地球の引力にそつぽむかれて,落ちても,落ちても,着くところがないやうな, 悲しいことになりませんやうに.」

外務省 アジア歴史問題Q&A

外務省 アジア歴史問題Q&A http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html 内容の適否は措いておくにしても,外務省(日本政府)のアジア歴史問題に関する公式見解が分かりやすくまとめられている.日本政府および外務省は,アジアの歴史問題に対して腫れ物に扱うようにするだけで,真摯に対峙すべき問題の所在は曖昧になるだけであった.外交努力(国内外での啓蒙広報活動も含め)も,適切,十分であっただろうか.相互における信頼関係は,地道に作り上げていくしかないが,ボタンのかけ違いばかりが目立ってしまう戦後60年であったように思う.現在アジアとの関係は良好とはいえず,残念でならない.もちろん,この責を日本政府だけに負わせるのも公平とはいえないだろう,また,こういうWebページを地道に作っていくような努力は評価したい.

ブログ書評サイト「KINOKUNIYA BookLog」

ブログ書評サイト「KINOKUNIYA BookLog」 http://booklog.kinokuniya.co.jp/ が2005年7月31日に正式運用になった.このブログでは,斯界の気鋭の専門家で,読書家としても練達である8人の執筆者(2005年8月現在)が,書評を不定期に発信する.このブログサイトの設立の動機は,その紹介によれば,概略以下のとおりである.従来の書評では,「新刊書を効果的にプロモーションする」ことが前提とされており,書評本来の意義が見失われがちであった.しかし,書評は,その評者と独立では有り得ない.「その書籍を、どういう文脈で、どのように読んだか」という情報が重要であり,ブログは,そのような書評情報を発信するのに適した形式である... 8人の書評者の顔ぶれを見ると,いずれもそれぞれの分野の第一人者である研究者・専門家ばかりであり,また一癖も二癖もありそうな面々が揃っている.書籍の選択や書評自体も個性的なものであるに違いないと期待できる.今後の展開と充実が楽しみな書評サイトである.

蛍川 (宮本輝)

このブログを書き始めてから,今まで読んできた,あるいはこれから読む本について,いろいろ思ったこと考えたことを書き留めておきたいと思うようになってきた.そう思うと,今まで読んできたいろいろな作家のいろいろな作品が思い浮かび,そのときの思いがあふれてくるような気がする.そのようなすべての作品について書いていたらきりがないような気がするが,こつこつと続けていこうと思う. そこで,まず書いておきたいと思うのが,宮本輝の作品である.最初に読んだ宮本輝の小説は,「蛍川」で,高校生のときであった.「蛍川」は,いわゆる河三部作の一つで,芥川賞も受賞した.宮本輝の初期の代表作である.映画化もされており,宮本輝の作品の中でも,最も有名な作品かもしれない. 「蛍川」は,私にとってはまさに衝撃的な作品であった.作品全体を貫く,みずみずしく,胸を締め付けてくるような抒情,そしてそれは,言いようのない読後感となっていつまでも私の中に残るものであった.それはまさに,宮本輝的なものとしか説明のしようがない. 蛍川の舞台となるのは,昭和37年の富山市で,主人公の竜夫は中学3年生の少年である.竜夫は,父重竜が52歳のときに生まれた子供であり,それゆえに父に溺愛された.しかし,重竜は事業が倒産し,失意の中にある.悪いことは続くもので,重竜は,脳溢血で倒れてしまった.重竜は自分の死期が近いことを自覚する. このとき,竜夫は,思春期にさしかかるところであった.竜夫の,幼馴染の英子に対する思い.それは淡い恋心でありながら,同時に,性の目覚めでもあった.そのような自分に竜夫は戸惑うしかない. 竜夫は,ことし75歳になる建具師の銀蔵爺さんから,4月に大雪があった年に現れるという,蛍の大群の話を聞いていた.銀蔵は語る. ・・・滅多なことじゃあ見られんがや.4月に大雪が降るほど,冬の長い年でないと,蛍の奴は狂い咲いてくれんちゃ・・・ 今年の4月は大雪であり,何年かぶりに蛍の大群が見られそうだと銀蔵は言う.竜夫は,首筋が火照るような思いがする.なぜなら,そのような年には蛍狩りに行こうと英子と約束していたからであった. そのうちしばらくして,友人の関根と,父重竜が,立て続けに亡くなってしまう.連続であった日常に潜んでいた,不連続さと理不尽さ.竜夫は,死というものを受け入れ理解することができない.ただ,「死ということ,しあ

詩集「北国」 (井上靖)

前のエントリ で触れた,珠玉の作品集について.ここでは,井上靖の詩集「北国」について書いてみたい. 井上靖についてはもう説明するまでもあるまい.「あすなろ物語」「しろばんば」などの自伝的な作品,「天平の甍」「楼蘭」「蒼き狼」「敦煌」などの歴史作品,その他「氷壁」など,誰しも一度は少なくともその題名は聞いたことがあるであろう,数多くの名作を生み出した.また,映画やドラマになった作品も多い. この井上靖の作品の中で,私が最も大きな感銘を受けた作品が,詩集「北国」である.私が持っているのは新潮文庫の文庫本であるが,もう絶版になっているようで,入手しづらいかもしれない. 「北国」は,38篇の詩集を収めた,井上靖の最初の詩集である.それぞれの作品は,詩といっても,散文の形式をとっており,近代詩の系譜の中でも独自のポジションを占めているのではなかろうか.これらの詩に共通して感じられるのは,ある広がりをもった静謐な空間である.そしてこの空間は,作者の研ぎ澄まされた詩情,抒情,愛と哀しみに満ち満ちている.またそれらは,非常に豊かなイメージをかきたてるものが多いものの,絵画でも音楽でもない.やはり,詩としか言いようのない空間である.これらの詩を介して,我々は作者の魂を感じ取ることが出来るのである. 38編の詩はそれぞれまさに珠玉としかいいようがないが,その中でも,特にいくつかの詩をここでは紹介したい.例によって内容に一部触れるので,未読の方は注意. 「海辺」…国語の教科書にも載っている有名な作品.青春への嫉妬と憧憬. 「愛情」…5歳の子供の相手をするときに突然突き上げてきた,烈しい愛情と深い寂寥. 「生涯」…「若いころはどうにかして黄色の菊の大輪を夜空に打揚げんものと,寝食を忘れたものです.漆黒の闇の中に一瞬ぱあつと明るく開いて消える黄菊の幻影を,幾度夢に見て床の上に跳び起きたことでせう.しかし,結局,花火で黄いろい色は出せませんでしたよ.」 一生を花火に捧げた老花火師の言葉.人生なるものへの畏れ. 「流星」…「私はいつまでも砂丘の上に横たわつてゐた.自分こそ,やがて落ちてくるその星を己が額に受けとめる,地上におけるただ一人の人間であることを,私はいささかも疑はなかつた.」 青春の情熱,矜持,孤高.それらは刹那に輝く,本来孤独なるもの.それゆえに哀しく美しい. 「高原」…いのちの悲

Yahoo!学習情報 - TOEICデイリーミニテスト

Yahoo!学習情報 - TOEICデイリーミニテスト http://edu.yahoo.co.jp/school/test/toeic_daily/  (リンク切れ) Yahoo! TOEICデイリーミニテストでは,実際のTOEICの形式にそった1問1答形式の問題を解くことが出来る.「今日の問題」では,リーディング/リスニング編それぞれ1日1問ずつ出題される.問題の量は少ないし,1日1回更新されることから,仕事の前あるいは授業の前にでも毎日解くことを習慣づけるとよいのではないか.それにしても,Yahoo! のサイトの充実ぶりには驚かされる.間違いなく日本最大のポータルサイトであろう. (関連エントリ) Yahoo!ステップアップ - TOEICデイリーミニテスト

掌の小説 (川端康成)

「掌の小説」(新潮文庫)は,川端康成が40年にわたって書き綴った,111篇の短編が収められた短編集である.このブログの 前のエントリ でも述べたように,川端文学の真髄が最も端的に表れるのはその短編集であるように思われる.「掌の小説」は,その最高峰といってよいだろうと思う.ここでは,111篇の短編の中から,特に感銘を受けた作品について書いてみたい.なお,以下では内容について一部触れるので,未読の方は注意されたい. 「帽子事件」…現実とも非現実とも見分けがつかない,独特な読後感を残す御伽噺のような作品. 「日向」…自伝的な要素を持つ.相手の顔をまじまじと見てしまう主人公の癖を題材に,主人公の祖父の思い出と,許婚への愛情が見事な形でまとめられている. 「指輪」…少女が見せる,女性的なるもの.「雪国」や「伊豆の踊り子」にも共通する,哀しく,なまめかしく,そして美しいもの.川端文学の一つの真骨頂. 「夏の靴」…枯れ草の上に白く咲いた,少女の白い靴.絵画的な印象を鮮烈に与える作品. 「有難う」…わずか5ページに,この時代に生きる人間の喜びと悲しみを見事に凝縮した川端の手腕.一言一句に無駄がない,とぎすまされた表現.一遍の映画を見るかの思い (実際に映画化されたとのこと) 「母」…「よき母になり給えよ われもわが母を知らざれば」 「神います」…高揚した作者の精神. 「雨傘」…雨傘を道具立に,少年と少女に芽生えた初めての,淡い愛の形.幼いものの,昇華された男女の愛. 「化粧」…女性,あるいは不可知なるものへの畏れ. 「眠り癖」…時が過ぎるにつれ,深く静かなものになっていく夫婦の愛.人生の真の充実がそこにある. この短編集に収められているのは,それぞれ2~10ページ程度の短編であるが,それぞれが一遍の小説であり,詩であり絵画である.また,作者が40年間にわたって書き綴った作品であるため,「雪国」,「伊豆の踊り子」,「山の音」,「眠れる美女」,「古都」,等の代表的な作品それぞれについて,それらと同じような時期に書かれたと思われる短編が数多くある.つまり,作者の40年の文学的変遷に思いを致すことができ,そういう観点からも興味深い短編集である.川端康成の文学のすべてがここにあるといってよいのではないだろうか. (関連エントリ) 母の眼 (川端康成,「掌の小説」所収)

愛する人達 (川端康成)

皆さんは,「珠玉」という言葉を聴くと何を思い浮かべるだろうか.小説に限って言えば,私が思い浮かべるのは,福永武彦の作品である.また,宮本輝,川端康成,井上靖にもそういう作品は数多い.ここでは,川端康成の短編集「愛する人達」(新潮文庫)について書いてみたい. 川端康成といえば,いわずと知れたノーベル文学賞作家である.雪国などの数多くの名作を残しているが,川端は短編集にも遺憾なく真価を発揮している.というより,川端文学の真髄が最もよく表れるのはその短編集であるといえるかもしれない.特に,「掌の小説」やここで述べる「愛する人達」などにおいては,作者のみずみずしい感性が短編であるがゆえに凝縮され輝きを増し,あまりに繊細であるために触れれば壊れてしまいそうな,まさに宝石のような短編がちりばめられている. 「愛する人達」は,川端康成が小説家として最も油が乗った時期に書かれた短編集であり,9編の短編を収めている.この短編集には,川端康成の描く愛の形が,それぞれまさに珠玉の短編としてまとまっている.その中でも私が最も思い入れのある作品が,「ほくろの手紙」という短編である.ところで,偶然かもしれないが,この短編集の題名である「愛する人達」という言葉が,この短編の中にあらわれている.作者としてもこの短編に最も思い入れがあるのでは,と考えるのはうがちすぎであろうか. 「ほくろの手紙」は,ある女性の,その夫に向けられた独白の形をとっている.この女性には,右肩の首の付け根にあるほくろをいじる癖があった.彼女の夫はこの癖を嫌がり,彼女を叱責する.彼女もこの癖をやめようと努めるのだが,どうしてもやめられない.その夫もとうとう根負けしてしまい,また,いつの間にかそれに無関心になってしまう.不思議なことに,彼女の癖もいつの間にか直ってしまった.彼女はその理由が分からなかったのだが,実家に帰って母とたわいもない話をしているとき,突然その理由が分かってしまったのであった…. ほくろをいじる癖という見事としかいいようがない仕掛けを基にして,哀しいけれども,人の心を打たずにはおかない名品が紡ぎあげられている.川端康成のみずみずしい感性が,遺憾なく発揮された作品ということができるだろう. (関連エントリ) 掌の小説 (川端康成) 詩集「北国」 (井上靖)