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Radius 320 シームレスディスプレイと理想の書斎

Radius 320 という巨大ディスプレイが話題になっているようだ.私は Gizmodo 経由で知った. Radius 320 Seamless Display: Look Ma, No Borders http://gizmodo.com/gadgets/peripherals/radius-320-seamless-display-look-ma-no-borders-196974.php 4800x1200 という超高解像度の液晶ディスプレイである.対角線の長さは50インチにもなるという.1600x1200のパネル3個を,特殊な技術によってシームレスに形成したようだ.こんなディスプレイを使って仕事をしてみたいものだ. 実際,コンピュータを使用するとき,ディスプレイが大きければ仕事の能率があがるといわれている. A Large Monitor Makes You More Productive  という記事によって,NY Times の以下のエントリを知った: Meet the Life Hackers http://www.nytimes.com/2005/10/16/magazine/16guru.html この記事によれば,15人のボランティアによる以下のような実験がなされたという.まず,それぞれの被験者は,15インチモニタを使い,あるコンピュータ操作(作業)を行う.次に,44インチのモニタを使って同様の操作をしてもらう.その結果,少なくとも10%の作業能率の向上があったという.44%の能率向上が認められたケースもあったとのことである. NY Times には,以下のような記事もあった: The Virtues of a Second Screen http://www.nytimes.com/2006/04/20/technology/20basics.html こちらの記事によれば,2台のディスプレイを使う場合,20~30%の生産性向上があったといわれている. 5~6m もあるような大きな机(しかも紫檀のようなどっしりしたもので)を一人で占有して,50インチもあるようなディスプレイを使って仕事をしたら,さぞかし仕事の効率も上がることだろう.妄想が過ぎるだろうか.そんな書斎が欲しいというのは私の夢の一つである.理想の書斎についてあれこれ妄想するのは楽し

聖書を読む - 申命記読了 (その2)

( その1 からの続き) 申命記の7章で,モーセは,イスラエル民族のアイデンティティについて述べる.その中で,エホバの言葉として,諸民族との関係が説かれる.すなわち,他の諸民族と戦うときは全滅させよ,彼らと契約してはならない,憐れんではならない,結婚してはならない等々,峻烈というべき定めである(1~3節).これは,彼らがイスラエル民族を惑わして異教を信仰させるようにするため,エホバが怒り,イスラエル民族を滅ぼすにいたるから,というのが理由である.イスラエル民族は,エホバの「聖民(きよきたみ)」であり,「地の面(おもて)の諸の民の中」から選ばれた「寶(たから)の民」であるから (6節),異教や異民族と交わってはならないのである. では,エホバはなぜイスラエル民族を選んだのだろうか.これについて,モーセは以下のように語る(7章7節): ヱホバの汝らを愛し汝らを撰びたまひしは汝らが萬の民よりも數多かりしに因(よる)にあらず汝らは萬の民の中にて最も小き者なればなり エホバが,イスラエル民族を愛して宝の民としたのは,その民が強大だったからではない.イスラエル民族が最も小さき者だった,言い換えれば,弱く,そして虐げられたものだったからこそ,エホバはその民を選び愛したのである. もちろん我々は,このエホバの愛が,イスラエル民族のみに対する愛であることを忘れてはならないだろう.しかし,この節こそが,エホバの愛の本質ではないだろうか. このようなエホバの愛に対し,イスラエル民族に求められることは何だろうか.これは,10章の以下の節で語られる(6章4節にも同様の句がある): 12. イスラエルよ今汝の神ヱホバの汝にもとめたまふ事は何ぞや惟是のみ即ち汝がその神ヱホバを畏れその一切(すべて)の道に歩み之を愛し心を盡し精神を盡して汝の神ヱホバに事(つか)へ 13. 又我が今日汝らに命ずるヱホバの誠命(いましめ)と法度(のり)とを守りて身に福祉(さいはひ)を得るの事のみ 申命記はモーセ五書のエッセンスである.そこで語られる律法のさらなるエッセンスが,上記の言葉に凝縮されているように思われる. この他にも,申命記には,珠玉の言葉がちりばめられている.だが,私が最も感動したのは,神エホバとモーセとの結びつきである.それは申命記の本筋ではないかもしれないが,最も心に残ったところであるので,あえてこの

聖書を読む - 申命記読了 (その1)

前回のブログの更新からだいぶ時間がたってしまった.このブログでは,聖書を読んでいく ( 聖書を読む ) 過程で,一巻ごとに感想を書いていこうと考えている.今回は,申命記の感想について書いてみたい.読了したのはもう去年のことになってしまったのだが… ( 申命記読了,2005年12月31日 ) Wikipedia ( Deuteronomy ) などによれば,申命記のもともとの書名は,Devarim (デバーリーム,ヘブライ語で言葉という意.以下ではヘブライ語は英語表記) というようだ.これは,冒頭の「これらは言葉である」 (Eleh ha-devarim) という一文からきている (申命記1章1節 「是(これ)はモーセがヨルダンの此旁(こなた)の曠野(あらの)紅海に對する平野に在てパラン,トペル,ラバン,ハゼロテ,デザハブの間にてイスラエルの一切(すべて)の人に告たる言語(ことば)なり」). また,mishneh ha-torah ha-zot (単に mishneh torah とも.ミシュネー・トーラー) などとも呼ばれていた.これは,ヘブライ語で「律法(トーラー)の写し」という意味である.これが,ギリシャ語の七十人訳聖書に訳されるとき,「第二の律法」 (Deuteronomion,デウテロノミオン) と訳されてしまった.これは厳密に言えば誤りであるが,七十人訳聖書に基づいたウルガタ聖書 (ラテン語) などでもこの訳が踏襲された.そして,その訳に基づいて,英語では「Deuteronomy」,漢語では「申命記」となり,日本語訳でも「申命記」と呼ばれるようになったらしい.ちなみに,「申」は「再び,重ねて,繰り返し」などの意味で,「申命」で,「再び(繰り返して)命じる,律法を述べる」ということになるようだ. 申命記は,旧約聖書のモーセ五書の最後の書である.しかしながら,この申命記の著者がモーセかといえば,そうではないようだ.なぜならば,申命記34章では,モーセの死とその死後のことが記されているからである.そこで,この部分はモーセの後継者ヨシュアが書いたものと信じられてきた.だが,現在では,この申命記の成立については,概略以下のように考えられているようだ.列王記(下)の22章8節に,「時に祭司の長(おさ)ヒルキヤ書記官シヤパンに言けるは我ヱホバの家において律法(おきて)の