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大江健三郎について

例によってまとまりが全くない内容であるが,現在の自分の記録ということで,エントリを書いてみたい.大江健三郎について. 私がはじめて大江健三郎の小説を読んだのは,高校くらいのときだったと思うが,そのときは受け入れることができなかった.それは,大学に入ってもそうだったように思う.また,その政治的な活動や思想についても,完全に受け入れることができないような気がした. しかし,大江健三郎は,それ以降も,気になる存在ではあった.というのは,大江の師,渡辺一夫への思い,息子光氏のこと,大江の文学に対する姿勢,といった,いわば,その作品自体とは別のところで,関心を捨て切れなかったのである. そのような状況で,再び大江健三郎の小説を再び読んでいこうという気になったのは,2004,5年あたりの,朝日新聞の大江健三郎の連載「伝える言葉」を読んでからである.その連載は,現在では朝日文庫の「「伝える言葉」プラス」という本で読みなおすことができるが,その中でも,記憶に残る文章の一つをここに記しておきたい.「アマチュアの知識人」という題名の文章である.以下に一部引用する.言うまでもないが,以下で「私」とあるのは大江自身のことである.  フランス文学科という,森の中の谷間の少年に不似合いなところを選んだのは,高校二年で読んだ岩波新書の著者,渡辺一夫に教わろう,と思い立ったからです.しかし駒場で初めてフランス語に接した私には,本郷に進んでも,研究者への道は遠いものでした.  小説を書き始めていたこともあるのですが,大学院を断念した私は,卒業式に出られないほど思い屈していました.四月になって,渡辺さんから話しに来るようにと葉書をもらいました.そしていわれたことを,もう幾度も書きましたが,忘れないでいます.  ―― 小説を書いているだけでは退屈します.ある作家,詩人,思想家をきめて,その人の本,そしてその人についての研究書を,三年間読み続けるように.きみは小説家になるのだから,専門の研究者になる必要はない (そうなることはできない,という意味です),そこで四年目には,新しいテーマに向かって進むように.  私はそのとおりにして,続けてきました.この四月から,十五回目の三年目に入ります.T・S・エリオットの後期の作品を読んで,いまはそれが (結果的に) 自分の過去と現在,そして社会の未来への思いと結んだと