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信仰とは

あるブログで、隠れキリシタン(正確には潜伏キリシタンというべきか)に関するエントリがあった。そのエントリについて言及するつもりはないが、信仰ということについて以前から思っていることがあるので、まとまりはないが、ブログに書いてみたい。 信仰のことを考えるとき、宗教について考えないわけにはいかない。信仰と宗教については、人それぞれ思うところがあるだろう。しかし、私がいつも思うのは、敬愛する作家、井上ひさしの文章である。 井上ひさしは、「四十一番の少年」に描かれているような、辛苦ともいうべき少年時代を過ごした。しかしその時代の井上の宗教的生活については、私は、「道元の冒険」のあとがきにある、以下の記述が強く印象に残っている。  わたしが宗教と遭遇したのは中学三年の秋であり、その宗教はカトリックだった。その出会いはこちらから求めたものではなく、気がついたときすでにわたしはカトリック者たちのまっただ中にいたのである。つまり、わたしは中学三年の秋、カトリックの養護施設に収容されたのだった。  一年がかりで、わたしは五百項目以上に及ぶ公教要理(カテキズム)を暗誦し、毎朝六時に捧げられるミサに出席し、朝夕ロザリオを一環ずつ唱え、やがて洗礼を受けたが、べつに、三位一体の玄義を理解し、天地の創造主である天主の存在や、キリストの行なった数多くの奇蹟や、教会のもろもろの秘蹟を信じたからではなかった。  わたしが信じたのは、遙かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉(ゆうげ)をすこしでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒(ま)き、手を汚し爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服(スータン)を新調するようにと送られてくる羅紗(ラシャ)の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当った修道服で通した修道士たちだった。  べつの言い方をすれば、わたしは天主の存在を信ずる師父たちを信じたのであり、キリストを信ずる襤衣(らんい)の修道士たちを信じ、キリストの新米兵士になったのだった。 また、ある小説から、信仰に関して紹介したい。 たびたびこのブログで書いているように、私はクリスチャンではない。しかし、私にとっては、信仰の対象として、イエスのことがまず思い浮かぶ。そして、イエスへの信仰ということ