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ブログ開設10周年となぜブログを書くかということ

ウェブリブログから年に一回の恒例のメールが送られてきましたので,恒例のエントリを書いてみたいと思います. 日付: 2015/06/18 8:03 件名: 祝ブログ開設10周年! ○━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━●            ブログを開設してから、もうすぐ10周年!! ●━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━○ ウェブリブログに登録してから、あと2日で10周年になります。 ウェブリブログ事務局のまーさです。 ご利用いただき、ありがとうございます!     A Day in the Life       http://dayinthelife.at.webry.info/ この10年間にあなたのブログで生み出された訪問回数は・・・     394860 件 になります。 (以下略) なんと,このブログも,開設10周年となりました.10年! …感慨深いというよりも,呆然とするような時間がたってしまいました. もちろん,数ヶ月前に「 ブログを三か月更新しなかった 」というエントリを書きましたし,ここ五年くらいは月に一本を下回る頻度でしか更新してないので,本当に続いているかどうかは私自身大いに疑問ではあります.しかしながら,ブログをやめるつもりは全くなく,細々ながらも書いていくつもりなので,続いていると強弁したいと思います. それにしても,なぜこんなに長く続けてこられたのか.なぜブログを書くのか.ブログの世界は死屍累々で,面白かったのにすっかり更新されなくなったブログは,数知れないほどです (逆にいうと,つまらない内容だからこそ長く気楽に続けてこられたのかもしれない).私は日記のたぐいは文字通り三日坊主で,このブログを開設したときも,こんなに長く続くとは予想すらしませんでした. 結局ブログを書くということは,やはりある種の創作意欲や衝動の発露であるとはいえると思います.そうしたことは,小説家や詩人がときに書いたりしており,たとえば高村光太郎の「自分と詩との関係」などの文章を思い出すのですが,ここでは芥川龍之介の「はっきりした形をとるために」という小文から引用したいと思います.これは,編...

不機嫌ということと読書について

twitterでも呟いたのだが,中年になってくると,たとえば読書についても,残りの人生であと何冊読めるかといったことを,ぼんやりとでも考えるようになる(こうした思いについては,本ブログのエントリ「 若い頃にしかできないこと 」にも書いた).そうすると,浅ましい考えではあるが,面白くもない本を読む時間がもったいないと思うようになるのである.露悪的に下品に言えば,「外れ」の本を読みたくなくなるということだ.本だけでなく,音楽についても似たような思いがある. 一方で,映画,漫画,ゲームなどについては,そこまで切迫した思いはなく,「外れ」(失礼だが)にあたってもそれほど気にならない.気にせずに,どんどん新しいものにチャレンジしていきたいと思っている.これはおそらく,読書のほうが自分にとっては大事な趣味ということだろう. こうした思いから,古典とよばれるものを意識して読むことが増えた.古典は,時代の風雪に耐えて生き残ってきただけに,(古色蒼然とはしていても)どれもそれなりに面白く,いろいろ考えさせることも多い.たとえば最近読んだものだと,ゲーテの「ファウスト」,「若きウェルテルの悩み」などが出色だった.これらは高校か大学のときに読んだものであるが,当時よりも今回の方がはるかに面白く感じてしまった.もともと昔は(今も?)頭が悪かったのかもしれない. 特にこのエントリでは,「若きウェルテルの悩み」から,本筋とはあまり関係ないが,いくつか引用してみたい.そのきっかけとなったのは,以下のような記事を読んだことである. 不機嫌がなぜいけないか。「ピカソは本当に偉いのか?」に書いてあった|篠田真貴子|note https://note.mu/hoshinomaki/n/nd998e3cd1998 この記事はいろいろと考えさせるところがあったのだが,「若きウェルテルの悩み」でも,不機嫌について論じているところがある.ある場面で,ウェルテルは,不機嫌ということを手ひどく攻撃するのである. われわれ人間はいい日が少なくって悪い日が多いとこぼすが,ぼく(注: ウェルテルのこと)が思うにそれはたいてい間違っている.もしわれわれがいつも,神が毎日授けてくださるいいことを味わう率直な心を持っていられたなら,たといいやなことがあっても,それに堪えるだけの力をもつことができるだろう. 不機嫌というやつは怠...

人間の限界 (ゲーテ)

Amazon があまりに便利なので,本を買うのは Amazon にすることが多くなった.しかしそれでも,本屋には,Amazon などのインターネットショップには替えがたい魅力がある.自分の興味がない分野も含めて,さまざまな分野の新しい本・雑誌が並んだ本棚,意匠をこらした本の装丁,本の独特の重み,質感,香り,活字を読みながら一枚一枚ページをめくるときの喜び,これらはやはり本屋でしか味わえないものである.本屋に入るときは,たとえそれが行きつけの本屋であっても,わくわくする. また例によって話はそれたが,今日本屋に行って一つの発見があったので,それについて書いてみたい.自分の無知を晒すようで,恥ずかしい話でもあるのだが. その本屋でふと手に取った「ゲーテ詩集」(新潮文庫)に,「人間性の限界」という詩があったのである.気になったので原題を見てみると,「Grenzen der Menschheit」という.ドイツ語は分からないので,AltaVista の Babel Fish Translation を利用して英語に翻訳してみると,「Borders of mankind」となる.つまり,逐語訳だと「人類(あるいは人間)の境界」となるだろうか.調べてみると,この詩の題は,「人間性の限界」あるいは「人間の限界」と訳すのが一般的のようだ. 以前,霜山徳爾先生の書籍「人間の限界」について記事を書いた( 2006年3月5日のエントリ ).古今東西の文学・哲学に造詣の深い先生のことであるから,もちろん,この詩を念頭に置いた上でこの本を書かれたに違いない.なお,上記エントリにも書いたのだが,霜山先生には「人間の詩と真実」という名著もあり,これはゲーテの「詩と真実」に基づいている.そのことは「人間の詩と真実」の中に書いているのだが,先生の「人間の限界」の中には,書名の由来は書かれていなかったように思う.見逃しているだけかもしれないが. いずれにせよ,「人間の限界」のような思い入れのある本の書名の由来を今まで知らなかったとは,自分の無知が恥ずかしくなるばかりであるが,それでもその由来を知ることができたのは望外の喜びである. ここで,ゲーテの詩「人間性の限界」(高橋健二訳)の一部を紹介しておきたい. ・・・ 神々と人間とを 分かつものは何ぞ? 神々の前にては 波さまざまに姿かえて流るれど, 流る...