それから (夏目漱石)

一番最初に読んだ夏目漱石の本は,「坊ちゃん」であった.中学生のころだったのではないか.落語的な独特のユーモアと痛快なストーリーが単純に面白かったような記憶がある.それから,「こころ」,「我輩は猫である」の順で読んでいったように思う.夏目漱石作品の,一般的な読書経験ではなかろうか.


夏目漱石の作品を夢中になって読み始めたのは,大学生のころであったように思う.そのきっかけとなった作品を忘れてしまうくらい,繰り返し読んだ.今となっては,福永武彦 (福永武彦のテーマ記事) と共に,私の最も敬愛する作家の一人である.


そこで,今回のエントリでは,漱石作品の一つ,「それから」について書いてみたい.このブログで取り上げるのは比較的古い作品が多く,また,その選択も個人的な趣味に基づいており,世のトレンドが考慮されていない.今回もまた,夏目漱石の小説であるから,正直恐縮するところもあるが,どうかご容赦されたい.


「それから」は,「三四郎」に続く作品である.さらに続く「門」をあわせ,これらの作品は三部作といわれている.主人公の長井代助は,明治維新後の実業界で財を成した父の経済的援助のもとに,大学を卒業しても職につくことなく,いわゆる高等遊民の生活を送っている.代助は,高等教育の結果,持ち前の高い知性をより発展させ,「細緻な思索力と,鋭敏な感応力」を得るに至った.このような代助の考えでは,麺麭(パン)のための仕事は劣等で堕落である.なぜならば,「労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される」からである.従って,麺麭のために汲々とする平岡とは相容れないところがある.また,代助は,父親についても心の底では冷淡となるざるを得ない.父親の考えは,代助にとっては「毫も根本的の意義を有して」おらず,その言葉も「端倪すべからざる空談」にしかすぎないからである.代助はその思索の結果 nil admirari の域に達してしまい,次第に孤立の度を深めていくが,これは明治の文明の必然と考えている.もちろん,これは漱石の考えでもあろう.


一方で,代助の明晰な頭脳と鋭敏な神経は,自らをも批判の対象とせずにはおかない:


彼は普通自分の動機や行為を,よく吟味してみて,そのあまりに狡黠(ずる)くって,不真面目で,大抵は虚偽を含んでいるのを知っているから,遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかったのである.


このような代助の性格は,神経質というよりむしろほとんど神経症的な症状を呈しているようだ.そのような記述は枚挙に暇がなく,いずれの描写も迫真性がある.おそらく,抑鬱型の性格であった漱石の実体験だったのではないか.


代助の日々は,平岡と三千代の夫婦が東京に戻ってきてから,大きく動き出す.ここで,三千代は,どんな女性であったか.この作品でも様々な描写があるが,私にとって最も印象深かったのは,以下のようなものである.5月くらいの時期であろうか,三千代が代助の家を訪れることがあった.のどの渇きを覚えた三千代に対して,折悪しく住込みの婆さんが不在であったため,代助が手際悪く湯飲みに水を入れて部屋に戻ってきたところである.


・・・三千代は例(いつも)の通り落ち付いた調子で,「難有う.もう沢山.今あれを飲んだの.あんまり奇麗だったから」と答えて,鈴蘭の漬けてある鉢を顧みた.代助はこの大鉢の中に水を八分目程張って置いた.妻楊枝位な細い茎の薄青い色が,水の中に揃っている間から,陶器(やきもの)の模様が仄かに浮いて見えた.


どうしてそんなものを飲むのか,代助ですら面食らった.おそらく,この描写によって三千代がどんな女性であるかを表現することはないのかもしれない.しかしながら,私の中では,三千代という女性はこの描写と強く結びついている.


代助は,かつて三千代のことを愛していた.しかしながら,代助は,三千代と友人の平岡との仲を取り持ち,二人は結婚に至った.その当時は,「僕の未来を犠牲にしても,君の望みを叶えるのが,友達の本分だと思った」からである.だが,代助は,三千代のことを忘れることができなかった.結局,代助が三千代を平岡に周旋した行為は,代助が最も否定するところの,欺瞞や虚偽の動機に他ならなかったのである.代助は,意識しようとしまいと,この自らの行為に苦しめられていく.


三千代と再会してから,代助は,自分の思いを次第に明白に認識するようになってくる.また,ちょうどそのころ,代助は,父の推し進める政略結婚により,抜き差しならない状況に追い込まれていた.だが,代助はその明敏な頭脳と神経により,他人はもとより自らの欺瞞も許すことは出来ない.もはや代助に残された道は,三千代のことを忘れ,父のすすめる結婚により新たな人生を始めるか,あるいは,自然の命じるまま三千代との愛を突き進めていくか,いずれにしかないように思われた.しかし,後者はもちろん不倫であり,また明治の時代であるから,深刻な社会的制裁を受けるであろう.父親の逆鱗に触れることから,経済的援助もなくなり,パンのために働くことになるだろう.それらは,自らを否定することであり,破滅に他ならない.だが,代助が選んだのは三千代であった.彼は,「自然の児」であろうとしたのである.


代助は,三千代に自分の思いのたけを伝えるために,自分の家に来てもらう.この日,雨が降りしきっていた.そして,代助の家で二人は向かいあう.


雨は依然として,長く,密に,物に音を立てて降った.二人は雨の為に,雨の持ち来す音の為に,世間から切り離された.同じ家に住む門野からも婆さんからも切り離された.二人は孤立のまま,白百合の香の中に封じ込められた.



代助は黙って三千代の様子を窺った.三千代は始めから,眼を伏せていた.代助にはその長い睫毛の顫える様が能く見えた.

「僕の存在には貴方が必要だ.どうしても必要だ.僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」


降りしきる雨と,白百合の香り.そして,代助の全人格をかけた,三千代への愛の告白.なんと印象的な情景であろうか.余計な解説は全く不要だろう.


それから,物語は一直線に破滅に向かっていく.有名なラストシーンでは,代助の破滅が暗示されるかのようである.また,代助に訪れた狂気は,読者にめまいを感じさせずにはおかない.


烟草屋の暖簾が赤かった.売出しの旗も赤かった.電柱が赤かった.赤ペンキの看板がそれから,それへと続いた.仕舞には世の中が真赤になった.そうして,代助の頭を中心としてくるりくるりと燄(ほのお)の息を吹いて回転した.代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した.


「それから」は恋愛小説として紹介されることもあるが,それだけではない.自然の命じるままに(代助の言葉では「天意」)生きていこうと決意した,明治の知識人の矛盾と破滅の物語である.それを悲劇たらしめているのが,夫ある女性への愛であり,漱石の手腕であろう.そして,この悲劇の本質は,21世紀の現代になっても,我々が自然に生きようと考えたとき,必ず直面するものと思えてならない.




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