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人を好きになる経験について

以下の記事を読んで、思うことがあったので、エントリにしてみたい。 人を好きになる経験がないと何がいけないのか https://anond.hatelabo.jp/20240509105701 そのコメントは以下↓ [B! 増田] 人を好きになる経験がないと何がいけないのか https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240509105701 人を好きになるということだが、好きになる対象は物でも動物でもかまわない。そこで以下では、「人」と書いてあっても適宜読み替えていただきたい。 さてここで本題だが、人を好きになるとはどういうことか。 人を好きになるということの本質を、言葉で正確に定義することは難しい。そこで凡百の言説を含め、今までさまざまなことが言い尽くされてきた。 このような、いわば議論百出のような状況になっているのは、人を好きになるということが、人生の歩みに基づいた行為だからではないだろうか。人が生きるという有りようがさまざまであるからこそ、人が好きになるという営為もさまざまでありうる。 そうであるとすれば、私にとって、人を好きになるということとはどういうことか、それを書いてみるのも意味があるのかもしれない。 私にとって、人を好きになるということは、説明しがたい、不思議な体験である。別の言葉で言えば、その体験は、どうも人間離れしているようにしか思えないのである。 もちろん、人を好きになるときの高揚感、興奮状態というのは、普段と違う状態ではある。だが私はそういうことを言っているわけではない。 どうも我ながら言語化が下手でもどかしいのであるが、自分の思いをまとまりなく書いてみると、以下のようになるだろうか。 私はときどき思うのである。この薄汚れた灰色の世界、時には地獄としか思えないこの世の中で、私は何ができるだろうか。究極的には、何もできない。そしていろいろなものに蓋をして、絶望すらごまかしながら、生きていくしかない。そうして人生というものがいつかは終わるのだろう。 そのような世界で、人を好きになることこそ、人にできる最後の祈りでないだろうか。そしてそれは、神からの祝福であるように思えるのである。だからこそ、人を好きになる、人を愛するときのみ、人は神になることができるのではないだろうか。 そのように考えてきた...

イエスは地面に何を書いていたか

しばらく間があいてしまったが、本ブログのエントリ「 ChatGPT とヨハネによる福音書 」の続きを書いてみたい。 先のエントリ に書いたように、ヨハネによる福音書に、イエスが地面に何かを書いていたという場面がある。しかし今となっては、イエスが書いたその内容は知られていない。現在、その内容についてはいくつかの説があるのだが、私は、それらの説にしっくりこない気持ちを抱いていた。一方で、私なりに思うところもあるので、改めて自分の思いをエントリにまとめてみたい。それは、識者にとって失笑される内容かもしれないが、恥をかくのを気にしていたらブログなどとても書けない。ので、気にしないことにする。 前置きが長くなったが、最初に、イエスが地面に書いていた場面を簡単に説明しよう。以下では手抜きだが、ChatGPT による説明を再掲することにする: この場面は、ファリサイ人たちが罪を犯した女性を持ってイエスの前に連れてきて、イエスに「この女性は、姦淫の現場で捕まりました。モーセは、このような女は石打ちにして殺せと命じていますが、あなたはどう思いますか?」と問いかけたときに起こりました。イエスは、何も言わずに地面に指で何かを書き始めました。その後、ファリサイ人たちがイエスに対して質問を繰り返すと、イエスは「あなたがたの中で罪のない者が最初に石を投げるがよい」と答えたとされています。 この後、イエスは「そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた」(ヨハネ8:8) この場面では、ファリサイ人が、イエスを陥れようとしているのである(ヨハネ8:6)。当時、この女を石打ちにすることもしないことも、イエスにとっては困難な状況であった。そしてイエスは、ファリサイ人の問いには答えず、地面に何かを書いて、その間に上記の有名な言葉を語ったのであった。 ここで印象的なのは、やはり地面に何かを書いていたイエスの振舞いである。あまりに奇妙で、唐突ではないだろうか。単に上記のセリフ(「あなたがたの中で罪のない者が最初に石を投げるがよい」)を言うだけでこのエピソードは完結するのに、なぜわざわざ地面に何かを書く必要があったのか。そして、イエスは何を書いたのか。 当然、イエスは、自らを陥れようとしたファリサイ人の悪意を完全に見抜いていただろう。そこで、もしイエスが私のような凡夫であれば、世の中馬鹿ばかりと絶望して...

永遠ということ

つい先日、はてな匿名ダイアリーに以下のような記事がありました: 不死を扱った作品が好き https://anond.hatelabo.jp/20191029152636 その、はてなブックマークのエントリは以下のとおりです: [B! 増田] 不死を扱った作品が好き https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20191029152636 その内容について特にコメントすることはありませんが、ふと思ったことがありました。そこで、例によってまとまりはありませんが、記録としてエントリにしてみたいと思います。 不死といえば人類の見果てぬ夢ですが、死ねないということは、一つの罰にもなりえます。たとえば、磔にされ、生きたまま肝臓を鷲についばまれるプロメーテウスとか、山頂まで岩を運ぶよう命じられるが、あと少しで山頂に届くとき、その岩が転がり落ちてしまうシーシュポスなどは、死ねないがゆえにその苦行が繰り返されます。このような状況では、死は、一つの安息とも見えてしまいます。 一方で、ギリシャ神話におけるティターンなど、神々は不老不死と考えられることが多いと思われます。つまり、不死とは、神にのみ許されたものであり、それは、罰でもあるのです。以上のことは、どう考えられるでしょうか。 以前書いたことがあるように、私は特定の宗教に帰依していません。そこで無責任に考えてしまうのですが、神とは、本質的に、罰を背負った存在と言えるのではないでしょうか。 もちろんこのとき、私には、イエスの姿が念頭にあります。それは、人間の罪を一身に引き受けて、十字架で死んだイエスの姿です。そして、ルカによる福音書23章のことが頭に浮かんでくるのです。 39. 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。40. もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。41. お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。42. そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。43. イエスは言われた、「よ...

母の眼 (川端康成,「掌の小説」所収)

以前, 掌の小説 (川端康成)  というエントリを書いたのですが,それに対して以下のようなコメントをいただきました. はじめまして、 あの、、、『掌の小説』の中で母の眼という作品について聞きたいことがありまして、 何の意味かなかなか分かりませんね。ですので、あなたの考えがほしいんです。 たとえば、このタイトルはなぜ母の眼なのか。 最後の部分に書いてる「子守女の顔に何と明るい喜びだ。」ここの意味は何だと思ってますか。  https://dayinthelife-web.blogspot.com/2005/08/blog-post_7.html   私は特に教養があるわけでもなく,書評のようなものをこのブログに書いてはいますが,その解釈についても浅かったり間違ってたりするところが多々あるのではないかと思っています.しかし,せっかくのお尋ねでもありますし,自分の考えを書いてみることにしました.少し長くなってしまったので,コメント欄に書くのではなく,独立したエントリにしてみます. この小説のキーとなるのは,「美しい子守女」と「母の眼」ということではないかと思います.まず子守女についてですが,少なくとも戦前までは,貧しい家の年端もいかない女の子が,口減らしやお金を稼ぐために,子守女として奉公に出ることがよくあったようです.このような,子守女としての境遇はつらいものだったようで,子守唄のメロディに悲しいものが多いのは,そのためではないかと思っています.そのあたりの事情については,ざっと検索してみたところでは,たとえば以下のページに詳しいようです. 子守唄にみる幼児労働 http://komoriuta.cside.com/report/kanj20021101a.html 五木の子守唄と子守唄の里 http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/ituki_k.html この小説の主人公である子守女も,このような境遇だったと思われます. ただ,彼女は美しかった.そして,自分の美しさを十分自覚していたが故に,彼女は大きな自尊心を持っていたのだと思われます.これは,この子守女は,勤め先の宿屋の女中など相手にしなかったところからも見て取れます.彼女がおかれた境遇も,かえってその自尊心を強めることになった...