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ツバメ

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通勤路のある場所に,毎年ツバメが巣を作る場所がある.そこで,ツバメのヒナが育っていく様子を見ることを,毎年とても楽しみにしている. 今年は,4月5日に初めてツバメを見かけた. もうそんな時期か,はやく卵が孵ってヒナのツバメが育つといいのになといったことを思っていた.しかし,今年は天候不順のせいか,親ツバメが巣に寄ってくるのが例年より遅く,また,なかなか卵を産む様子もみえない.それで,やきもきしていた. そうするうちに,ようやくヒナのツバメが生まれていたのを確認したので,ほっとした.週末をはさんだので,見つけるのが遅れてしまった. この毛むくじゃらのツバメの子が,見る見るうちに大きく育っていくのである.毎日の通勤時にそれを見るのがとても楽しみだ. 参考までに,去年撮った写真も載せておく. それにしても,毎年毎年ツバメのこのような様子を見るにつけ,ツバメに限った話ではないが,生き物のこのような営みが,これまで気の遠くなるような時間の中で繰り返されてきたのだと,感慨めいた思いにとらわれる.そして,自分のことを振り返ってみて,年年歳歳花相似,歳歳年年人不同ということを思ってみたりするのである.

頭の良さについて

ゴールデンウィークにたまったブックマークを少しずつ消化している.その中で,頭が良くなるための方法論等に関する記事をいくつか見かけた.大変な数のブックマークがついてる.現代のような知識社会で生き残るためには,頭がいいことは一つの重要な条件であるから,頭の良さということは多くの人にとって切実であるということだろう.では,そもそも,頭がいいということはどういうことだろうか.これについてぼんやりと考えた内容をここに書いてみたい.我ながら散漫な内容ではあるけれども,今後また考えていくときの材料にはなるだろう. 頭がいいということを定義することは難しいだろう.そこで,迂遠ではあるが,分かりやすく考えるために,その人のアウトプットの質と量から,頭の良さということについて考えてみる.一般的には,そのアウトプットの質が高いということが,頭のよさに直結するように思われるのではないだろうか.だが,私は,実はその量こそが頭の良さの一つの本質ではないかと思えるのである. たとえば,研究を例に取ってみる.少なくとも科学的分野では,研究の質と量というものは比較的分かりやすいといえる.研究の質とは,たとえば斬新なアイディアに満ちているかということであり,一方,研究の量とは,論文数やプロジェクトの成果物で計ることができる.もちろんそれは単純に過ぎるというそしりは免れないだろうが,話を進めてみる. そうすると,一人の研究者が行う研究の質と量の組み合わせは,(1)質は高く,量も多い,(2)質は高いが量は少ない,(3)質は低いが量は多い,(4)質も低く,量も少ない,という4通りが考えられる. ここで,ケース(1),(3),(4)は自然に受け入れられるであろうが,問題はケース(2)である.私の感覚では,このケース(2)の割合が非常に少ないように思われるのだ.優れた研究成果を出す研究者は,その成果の量も圧倒的に多い.優れた研究を年をおいて散発的に発表するようなケースは,ないとは言わないが,稀であるように思われる.確かな根拠とは言えないが,このことが,量というものが,いわゆる頭の良さということに直結している一つの証拠のように思われるのだ. これは,研究だけに限った話ではない.すぐれた研究者というのは,研究以外で,学会運営や政府関係の仕事,もちろん大学や会社の運営等,膨大な雑用がふりかかってくる.そして,彼らに共