大いなる助走 (筒井康隆)
以前,松本清張の「 或る『小倉日記』伝 」について書いた.今回,松本清張のつながり(知る人ぞ知る)で,筒井康隆の「大いなる助走」(新潮文庫)について書いてみたい.私は,筒井康隆の愛読者である.旅行などの際に読みたくなれば,たとえ持っている本でも買ってしまうので,同じ本を何度も買うことも少なくない.私の友人にも筒井康隆の愛読者は多いようだ. 筒井康隆は,3度直木賞の候補となった(「ベトナム観光公社」(第58回),「アフリカの爆弾」(第59回),「家族八景」(第67回))が,いずれも受賞を逃している.その恨みつらみでこの作品「大いなる助走」を書いた…かどうかは知らないが,少なくとも創作のきっかけにはなっているだろう. 「大いなる助走」の主人公,市谷京二は,ある地方の同人誌「焼畑文芸」に作品を発表し,その同人誌仲間と知り合う.彼等は,文学に対する様々な姿勢のもとに,その同人誌に作品を発表し,文学談義を繰り広げる. この作品では,そのような同人誌の周辺の話題,同人誌作家のありさまなどが描かれる.同人誌の世界は,特殊な価値観をもった閉鎖的なものであるから,そこで描かれる同人誌作家の生態も独特である.中央文壇に対する屈折した感情,同人誌仲間や一般社会に対する軽蔑,嫉妬,憎悪.それらが,筒井康隆らしい毒のこもった筆致で描かれる.その描写における筒井の視線は残酷ですらある. こういった同人誌界(中央文壇も含めて)の特殊性や悲喜劇性は,どこから来るのだろうか.この作品の登場人物が自己韜晦気味に語るように,文壇ジャーナリズムなどの評価などお構いなしに,自らの信じる道を突き進むのが文学ではないのか.そういった,いわば孤高の在り方はないのだろうか. これらの疑問に対して,登場人物の一人である牛膝(いのこづち)は,以下のようにまくしたてる: そもそも小説を書く,というのは自分以外の他人に読ませる為に書くのであって,そうでないなら書く必要はありませんね...小説という,自分以外の他人にとって日記以上に分かりやすい形式で書いたというそのことがすでに,他人に読んでほしいという願望のあらわれなのですからこの点で議論の余地はないと思うんです... 以下延々と続くパラノイア的な演説に,毒に当てられたようになって見逃されがちであるが,上記の台詞が本質を突いているように思われる.すなわち,他者からのまなざし...