I was born (吉野弘)

ここ数年,高校の教科書を読む機会がある.この年になって読む教科書は,自分が高校生だった頃に感じた以上に面白く感じる.特に,私の高校時代の現代文教科書に載っていた題材が,いまだに採録され続けているのを見つけると,非常に興味深く感じる.たとえば,吉野弘の現代詩「I was born」などがそうである.こうした作品を読むと,高校のときの自分と,現在の自分との違いについて,さまざまな思いが浮かんでくる.今回のエントリでは,例によってまとまりがないが,I was born という詩について,そうした思いを書いてみたい.


I was born では,「僕」は,ある発見を興奮したようにその「父」に話す:


そのとき僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した.僕は興奮して父に話しかけた

――やっぱり I was born なんだね――

父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ.僕は繰り返した.

――I was born さ.受身形だよ.正しくいうと人間は生まれさせられるんだ.自分の意思ではないんだね――


だが「父」は,「僕」の発見に応えようとせず,一見関係のない話を始める.


 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした.

――蜻蛉(かげろう)という虫はね 生まれてから二,三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何のために世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――


そして「父」は,ちょうどそのころ「僕」の「母」が亡くなったと話す.だが「僕」も,「父」の意図が分かったわけではなかった.


 父の話のそれから後は もう覚えていない.ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった.

―ほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――



この詩を読むと,いつも,高校生のころ初めてこの詩を読んだときに感じた思いを思い出す.それは,決して好意的なものではなかった.むしろ反発のようなものであったと思う.その思いをもう少し詳しく書いてみよう.


この詩の中で,「父」は,「僕」に何かのメッセージを伝えようとしている.それは,あえて残酷でかつ単純な見方をすれば,「僕」のせいで「母」が死んだとも取られかねないものである.ただ,そういった単純なものではなく,「父」が伝えたかったのは,もっと一般的な,人生のある恐ろしい真実のようなものではないか.それはおそらく,人生における抗いがたい何か,あるいは理不尽な何かであるように思える.いずれにせよ「父」の伝えようとするメッセージは重大な意味を持つもので,だとすれば,たとえ「僕」が幼かったにせよ,「父」は何故もっと直接的に「僕」に伝えようとしなかったのだろうか.


より腹立たしいのは,「僕」の態度である.この詩においては,「僕」は,自覚はないであろうが,まだ知らぬ性の喜びのかすかな予感におののいている.そして,「僕」は,他に何も考えられないかのようである.「僕」はなぜ「父」の伝えようとすることに正面から向かい合おうとしないのか.「父」と「僕」の間にある齟齬のようなものが私をいらだたせた.


また,教科書の指導の手引にありそうな,教師の表面的な解説にも反発のようなものを覚えた.その解説は違うのではないか.しかし同時に,私は,自分がこの詩を理解していないというような確信も感じていた.なのに,教師は得心のいくような解説をしない.それが余計にもどかしいような思いをさせたのだった.



こうしてまとめて書いてみると,改めて,若いというよりもむしろ青いような当時の自分に気恥ずかしくなってくる.


それからもう20年近く経った.私にもそれなりにいくつかの人生の節目があった.そうした今の自分がこの詩を読むと,上記の感想は,青臭いとはいっても,この詩の核のようなものに触れているように思われる.そしてまた,今となっては,高校生当時の自分には感じられなかった,別の思いもあるのである.


この詩で最も重要なのは,言うまでもなく,I was born という受け身の文であろう.「僕」が考えたように,我々は,自分の意思とは関係なく,「生まれさせられる」.そして,時間がたてば,「僕」は女性の配偶者を得て,今度は自分たち自らの意思として,子供を「生む」という営為を行っていくだろう.そして,再び,新たな生が I was born という受け身の形として始まるのである.このような,複雑な生と生の網目が,性によってつながっていき,その過程が繰り返されていく.英語における reproduction という言葉は,この過程をよく表しているように思う.


ここで重要なのは,この詩において時に指摘されるように,人の生においては,born という受け身は単純には bear という形にならないということだ.すなわち,I was born という受け身で始まった生を,主体的に I will bear という形の生にできるのは,女性だけなのである.そのように考えてきて,私は,この詩が,父,母,子という三者のありかたに光を当てていることを思うのだ.


この詩において鮮烈なイメージで語られるように,母と子の結びつきはあまりにも緊密である.子供は,母の命を食らって生まれてくる.その結びつきには明らかに甘美があり,生と性は一体のものであると感じさせる.


一方,母親と子の間にこのような命を介したいわば究極の結びつきがあるのに対し,父親はどうであろうか.もちろん,父親は,生と生の網目に関係はしてくる.しかし,母と子の結びつきに比べれば,父親はあたかも傍観者のような存在にすら見えてくる.では,父親の,子供に対する激しいような愛情というのは,錯覚なのであろうか.


こうして私は,井上靖の詩集「北国」(本ブログのエントリ)所収の「愛情」という詩を思い出すのだ.


愛情


五歳の子供の片言の相手をしながら,突然つき上げてくる抵抗し難い血の愛情を感じた.自分はおそらく,この子供への烈しい愛情を死ぬまで背負いつづけることだろう.こう考えながら,いつか深い寂蓼の谷の中に佇(たたず)んでいる自分を発見した.その日一日,背はたえず白い風に洗われていた.盛り場の人混みにもまれても,親しい友の豪華な書庫で,ヒマラヤ学術踏査隊がうつす珍奇な写真集をめくっても,所詮私のこころは医(いや)すべくもなかった.夕方,風寒い河口のきり岸にひとり立って,無数の波頭が自分をめがけて押しよせるのを見入るまで,その日一日,私は何ものかに烈しく復讐されつづけた.


上にある二つの詩を読んで,エディプスコンプレックスにまで思いを致すのは,牽強付会に過ぎるかもしれない.ただ,私は,これらの詩を読むと,復讐され続ける性であり存在が,男であり父親であると思うこともあるのである.そして,自分と,自分の父親のことをいろいろと思うのである.





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