山月記 (中島敦)

本屋やネットなどで,泣ける話の特集といったものを定期的に見かける.それなりに需要があるのだろう.そこで,私にとって泣ける話や小説はなんだろうかと考えているうちに,ある小説の書評を書いてみたくなった.泣ける話とは趣旨がずれるのだけれども,私には,読む度にいつも一滴(ひとしずく)の大きな涙を感じる小説がある.それが,中島敦の山月記なのである.


山月記は高校の国語教科書などに採録され,多くの方が一度は読んだことがあるのではないだろうか.特に,冒頭の格調高い一文は,人口に膾炙している名文の一つとして数えられるだろう.


隴西(ろうさい)の李徴は博学才穎(さいえい),天宝の末年,若くして名を虎榜(こぼう)に連ね,ついで江南尉に補せられたが,性,狷介,自ら恃むところ頗(すこぶ)る厚く,賤吏に甘んずるを潔しとしなかった.


簡にして要を得た硬質な文体で,山月記は綴られる.だが,その物語は,このような格調高い文体とは裏腹に,読む者の心をえぐるかのように続いていく.


山月記の主人公李徴は,自らの才を恃み,官職を辞して詩人として名を残そうとする.しかし,文名は容易に揚がらず,その間にも,彼が以前愚物として歯牙にもかけなかった連中が出世していく.自ら恃みとする才能への懐疑と絶望,俗世間で成功した同輩への羨望,そして,自らの人生への後悔.それらは次第に李徴の心をむしばんでいく.そして遂には李徴は発狂し,虎に身を変えてしまうのである.


その後,虎となった李徴は旧友の袁傪(えんさん)に遭遇し,変わり果てた自らの身の上について思いを吐露する.李徴を虎に変えたものは何だったのか.それは,己の心の内で飼い太らせた,臆病な自尊心と尊大な羞恥心だったのである.それこそが虎だったのだ.


己は詩によって名を成そうと思いながら,進んで師に就いたり,求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった.かといって,又,己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった.共に,我が臆病な自尊心と,尊大な羞恥心との所為である.己の珠に非ざることを惧(おそ)れるが故に,敢て刻苦して磨こうともせず,又,己の珠なるべきを半ば信ずるが故に,碌々として瓦に伍することも出来なかった.己は次第に世と離れ,人と遠ざかり,憤悶と慙恚(ざんい)とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった.人間は誰でも猛獣使であり,その猛獣に当るのが,各人の性情だという.己の場合,この尊大な羞恥心が猛獣だった.虎だったのだ.これが己を損い,妻子を苦しめ,友人を傷つけ,果ては,己の外形をかくの如く,内心にふさわしいものに変えて了ったのだ.


李徴の言葉は,血涙をふり絞って吐き出されるかのようであり,読む者をいたたまれなく,息苦しくさせていく.このような感情はむしろ,恐怖に近いものと言ってよいのかもしれない.そして,この恐怖によって,我々は気づくのである.我々の心の中にも虎がいることを.「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と,刻苦を厭う怠惰」ゆえに飼い太ってきた虎が,我々の心にも確かな存在としていることを,直ちに悟ってしまうのである.


むろん,李徴を責めることは容易であろう.李徴は詩人として名を残すことのみに憑かれたようになっていた.虎になってまで,自分の詩が長安の風流人に読まれることを夢に見るのである.李徴にとっては,すぐれた詩を作ることなど二次的なものであったのかもしれない.これこそが,袁傪が感じた,李徴の詩に欠けるところがある理由だろう.山月記は,名誉欲に取りつかれた男の哀れな末路とも読むことができる.


しかし,たとえそうであっても,私には,どうしても李徴を責めることができないのだ.李徴が,「産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを,一部なりとも後代に伝えないでは,死んでも死に切れないのだ」と言った思いが,ひりつくように分かるのである.それこそが,虎の真の姿なのかもしれない.己の才能に絶望しながらも,執着の念を断ち切れず,自分の仕事を後世に残したいと狂うほどに願う.詰まるところそれは分不相応な名誉欲かもしれないが,自分が生きた証をこの世に刻みたいという思いに他ならない.それこそが,永遠の命ということかもしれない.後世にまで伝わるような自分の作品を残せたら,そのときにこそ,自らの人生には意味があったと確信できるではないか... 李徴はそう思ったのではなかろうか.


そして,このような思いに強く共感するのは,私が,人生のおそらく半分程度まで生きてきたからかもしれない.李徴が,死んでも死にきれないといった思い,それは,暗闇に二つの眼を光らせている虎のように,暗く私の心の中にもあるのである.


山月記の物語は,以下のように結末を迎える.虎となり果てた李徴は,袁傪に,以下のように別れを告げるのである.


 今別れてから,前方百歩の所にある,あの丘に上ったら,此方を振りかえって見て貰いたい.自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう.勇に誇ろうとしてではない.我が醜悪な姿を示して,以て,再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると.

 袁傪は叢に向って,懇ろに別れの言葉を述べ,馬に上った.叢の中からは,又,堪え得ざるが如き悲泣の声が洩れた.袁傪も幾度か叢を振返りながら,涙の中に出発した.

 一行が丘の上についた時,彼等は,言われた通りに振返って,先程の林間の草地を眺めた.忽ち,一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た.虎は,既に白く光を失った月を仰いで,二声三声咆哮したかと思うと,又,元の叢に躍り入って,再びその姿を見なかった.


李徴も袁傪も,涙のうちに別れを告げる.このときの,「堪え得ざるが如き悲泣の声」を漏らす李徴のことを思ったとき,それを自分とは無関係なこととして平静なままでいられる人間がいるだろうか.ここで流れる涙は,決して李徴と袁傪だけのものではないのだ.


そして最後に,虎となった李徴は,慟哭しつつ走り去る.このような山月記を読んだ後に感じるもの,それは,人が生きるということに対する,哀しく苦い涙なのである.




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