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アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス)

私が本書「アルジャーノンに花束を」を初めて読んだのは、随分前になる。本書は何年か前に新版となったのだが、しばらく前に、改めて読みなおしてみた。そしてそのとき、以前読んだとは違う思いをしみじみ感じた。 今から思えば、前回この小説を読んだときは、人生の喜びも悲しみも分かっていなかった。もちろんそれは、今でも分かっていないのかもしれないし、それどころか一生分からないかもしれない。いずれにせよ、その思いをエントリにしてみたい。 「アルジャーノンに花束を」の主人公は、チャーリイという知的障害を持った青年である。この物語で描かれるチャーリイの姿は、その知的障害の故に、世界にある苦しみと悲しみとを意図せずに浮き彫りにする。 チャーリイは、ストラウス博士の手術を受ける前は、社会が自分に向けてくる嘲笑や侮蔑に対して、気づくことができなかった。また、自分のせいで、両親が罪悪感や苦悩・恥辱を感じ、互いにいがみ合っていることも、チャーリイには分からなかった。しかし、チャーリイは、無意識にそれらを感じているのである。それは、普段はチャーリイの心に澱(おり)のようにたまって動かないのだが、ふとしたはずみで顔を覗かせるのだ。 それは、たとえば以下のようなときである。ニーマー教授とストラウス博士から今後の手術について問われたとき、チャーリイは、こう応じるのである(知的障害を持ったチャーリイが書き記したものなので、読みづらい): キニアン先生(註: アリスのこと)もそういっていましたけれどもぼくわ痛い目にあってもかまわないのですぼくわじょおぶだしいしょけんめやるつもりですからとぼくわいった。かしこくしてくれるならかしこくなりたいのです。 私は、チャーリイのこの言葉に、涙を抑えることができなかった。チャーリイは、自分がもし賢かったら、より愛されるだろうと無邪気に思うだけである。しかしその思いは、出てくる言葉ほどには単純ではない。そこでは、チャーリイの声にならない叫びが聞こえてくるのである。それどころか、涙が、あまつさえ血が流れているのである。 そしてさらに、私にはある思いが浮かび上がってくる。チャーリイが求めているのは、救済である。しかし、この物語では、チャーリイにとって救いとは何なのだろうか? ストラウス博士の手術は成功し、チャーリイは、高い知性を持つようになる。それは、読者にとっても分かりやすい、...

クリスマス・キャロル (チャールズ・ディケンズ)

いよいよ明日、元号が平成から令和に変わる。元号に意味はないと考えることもできるが、それでも一つの時代の区切りを表すものなのではないか。するとその移り変わりは、いわば生まれ変わりを連想させずにはおかない。そう考えるといろいろな物語のことが思い浮かぶが、このエントリでは、ディケンズによるクリスマス・キャロルについて書いてみたい。 と言っても、クリスマス・キャロルはあまりにも有名な小説で、今さら私などがブログに書くのも躊躇してしまう。私自身何度も読んだし、映画化も何度もされている。主人公のスクルージは、守銭奴の代名詞として英単語になっているほどだ ( https://en.wiktionary.org/wiki/scrooge )。しかし、屋上屋を架すのもブログの醍醐味であり、臆面もなくエントリにしたいと思う。 クリスマス・キャロルは、スクルージという老いた商人の改心の物語である。スクルージは、単純に言えば守銭奴で、無慈悲で冷酷な男である。造形としては、現代では典型的なキャラクターに思われるだろう。そのスクルージのもとに、過去・現在・未来を表す三人の精霊(幽霊と訳すこともある)が現れ、それをきっかけとして、スクルージは生まれ変わったかのようになるのであった。 この物語は、クリスマスがどんな意味を持つかが分からないと、真に理解できないのかもしれない。したがって、非キリスト者てある私が、クリスマス・キャロルを語ることについては、ある種の後ろめたさを感じる。それでもあえて言うならば、私は、この物語を読むとき、イエスのあの有名な言葉をいつも思うのだ: この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。 (マタイによる福音書 4:17) しかし、クリスマス・キャロルは、単にスクルージの悔恨と改心の物語ではないのではないか。三人の精霊が訪れたのち、スクルージは実質的に死んだ。そして、再び新たな生を生きた。むしろそれは、再生というより新生という言葉がふさわしい。つまりスクルージは、復活したイエスを想起させる存在なのかもしれない。そう考えると、スクルージは生まれながらの守銭奴ではなく、生きてきた環境によってそうならざるを得なかったという見方もできるだろう。 いずれにせよ、クリスマス・キャロルは、死と生の物語である。そして死に続くその生は、永遠に続くのである。 一...

へんろう宿 (井伏鱒二)

以前,といってももう2か月も前になるが, 私の note  で,井伏鱒二について触れた.今回のエントリでは,その作品について,もう少し書いてみたい. 井伏鱒二の作品としては,「黒い雨」や,教科書にもよく載る「山椒魚」の二つが最も有名だろう.しかしながら,私がまず思いつくのは,「駅前旅館」や「へんろう宿」という,二つの小説である.この記事では,後者について書いてみたい. 「へんろう宿」は,非常に短い作品である.ドラマチックな展開もない.しかし,この掌編は,しみじみ私の記憶に残っている. この作品のストーリーは,以下のようなものだ.著者である「私」は,所用で土佐を訪れ,遍路岬で宿をとる.その土地では,遍路のことを,「へんろう」と云うのであった.そして,「私」が泊まった「へんろう宿」には,奇妙な風習があったのである. このへんろう宿は,宿屋としては貧弱であるが,5人も女中がいた.3人のお婆さんと,2人の女の子である.そして,その日の夜遅く,「私」の泊まっている隣の部屋で,一人の宿泊客と,この宿の一人のお婆さんが,酒を飲みながら話をしているのである.「私」はそのとき眠っていたのだが,二人の話し声で,目を覚ましてしまった.そのお婆さんは,へんろう宿の女中のこれまでの人生について語っているのであった. 「(中略)一ばん年上のお婆さんがオカネ婆さん,二番目のがオギン婆さん,わたしはオクラ婆さんと言います.三人とも,嬰児(あかご)のときこの宿に放(ほ)っちょかれて行かれましたきに,この宿に泊まった客が棄(す)てて行ったがです.いうたら棄て児(ご)ですらあ」 ひょうひょうとした御婆さんの口ぶりであるが,内容は衝撃的である.なんと,この宿の5人の女中は,全員,もともとは捨て子だったのである.幼い赤子をかかえた親が,遍路岬を道中する途中,その赤子を持て余し,へんろう宿に捨て子をする.へんろう宿には,そんな奇妙な風習があったのだ. お婆さんの話を聞いた宿泊客は,捨て子をする親の料簡を不審がる.そして,お婆さんと客の会話は続いていく. 「戸籍面はなんとするのやね.女の子でも戸籍だけは届けるやろう.嫁にも行かんならんやろう」 「いんや,この家で育ててもろうた恩がえしに,初めから後家のつもりで嫁に行きません.また,浮気のようなことは,どうしてもしません」 「はてなあ,よくそれで我慢が続い...

生涯に一度の夜(レイ・ブラッドベリ)

1, 2週間ほど前,HTTPのステータスコード451が話題になった. 政府の検閲で消されたページを表わす「451エラー」がスタート - GIGAZINE http://gigazine.net/news/20151222-http-status-code-451/ このステイタスコードは,レイ・ブラッドベリの「華氏451度」に因んでいるという.それで,ブラッドベリの作品について書いてみたくなった.内容的に,クリスマス前にエントリにしたかったのだが,この時期になったのは残念だ(いつものことであるけれども). ブラッドベリは,一言で言えば,SF作家,小説家ということになるだろうか ( Wikipedia の記事 ).普段私があまり読まないジャンルの作家で,私も数冊くらいしか読んだことがないのだが,今回のエントリで対象とする短編集「二人がここにいる不思議」は,ブラッドベリの最高傑作の一つではないかと思っている. …などと,ブラッドベリに詳しくもないくせに偉そうなことを書くと,諸賢から叱責されるのが目に見えるようだが,要はそれくらいこの短編集が好きであるということだ.いまAmazonで調べたところ,日本語訳は絶版であり,kindle化もされてないようだ.こんな名作が埋もれてしまうのは残念なので,やはり,ブラッドベリに詳しくない私でも,あえてこのブログで記事にしてみたい. 「二人がここにいる不思議」所収の短編はどれも傑作なのだが,特にここではその一つの短編,「生涯に一度の夜」について書いてみたいと思う. 「生涯に一度の夜」の主人公は,トマス(トム)である.トマスは,妻ヘレンと離婚したばかりだった.その理由については明らかにされていないが,読者にはその理由が分かる.トマスとヘレンは,お互いをよく理解しあえなかったのだ. トマスは,十七歳のころの願いを忘れることのできないような,良くも悪くもロマンチックな男だった.一方で,ヘレンはそれとは対照的に,あくまでも現実的で都会的な女性だったのである. トマスの願望とは,以下のようなものだった. 春の夜の散歩というのに憧れていてね.そら,朝まで温度が下がらない,暖かい夜があるだろう.歩くんだ.女の子と一緒に.一時間ほど歩くうちに,まわりの物音や景色から切り離されたような場所に着く.丘を登って腰を下ろす.星を見上げる.(中略) まわり中に町...

本をあまり読まない中高生に薦めたい10作品(その2)

( その(1) からの続きです) (6) 僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 中島らもの作品として「ガダラの豚」がよくお勧めされますが,鉄板すぎてチョイスとしては食傷気味ですね.そのかわりに,ここではこの作品をお勧めしたいと思います.著者のエッセイ集ですが,ひとつひとつのエッセイが短く,本を読まない中高生でも気楽に読めると思います.そして,灘校で落ちこぼれていた著者の中高時代,モラトリアムとしての大学時代,人が生きていくということ,そして死ぬということについて,読後に何らかの余韻が残るはずです. 追記 2016年2月28日 この本について,以下の記事を書きました. 僕に踏まれた町と僕が踏まれた町(中島らも)   (7) 人魚姫 大ヒットした映画「アナと雪の女王」は,アンデルセンの「雪の女王」に基づいており,アンデルセンの名前を知らない中高生は少ないでしょう(多分).アンデルセンの雪の女王は私の大変好きな話でもあるのですが,ここでは「人魚姫」をお勧めしたいと思います.あるきっかけで人魚姫は,人間の王子に恋をします.そこで人魚姫は,人間になれるよう魔女にお願いをするのですが,魔女は,その代償として,人魚姫の大事なあるものを要求するのです.多くの童話を残したアンデルセンの作品の中でも,最も美しく,そして悲しい物語です. (8) メルヒェン ノーベル文学賞を受賞した,ドイツの代表的な作家であるヘッセには多くの名作がありますが,その入門として,中高生の皆さんにおすすめしたいのが,この短編集です.その中でも,「アウグスツス」という作品を是非読んで貰いたいと思います.主人公アウグスツスの母は,息子のアウグスツスが誰からも愛されることを望み,その結果,アウグスツスは誰からも愛されるような人生を送ります.しかし,アウグスツスはそれで本当に幸せだったでしょうか? 愛とは,人生とは,といったことを考えさせられる名作であり,私は何度読んでも泣いてしまうような作品です. (9) 大泥棒ホッツェンプロッツ 私の大好きな児童文学作品の一つです.海外の作品の挿絵って,日本のものと違う独特の味があって好きなのですが,この作品の挿絵も素晴らしいです.そしてこの作品の素晴らしいのは,料理がとにかくおいしそうなのですね.生クリームをたっぷりかけたプラムケーキ,焼きソーセージとザワークラウト,シュトロイ...

本をあまり読まない中高生に薦めたい10作品(その1)

学生の皆さんはそろそろ夏休みですね.そこで,本を少しでも読んでもらおうと,某ブログ界隈では,中高生にすすめる作品リストというネタが一部で盛り上がっているようです.面白そうなので,私もエントリを書いてみることにしました. 方針としては,普段あまり本を読まない中高生に対して,読書に興味をもってもらえるような作品(なおかつ,似たようなブログ記事で選ばれていないもの)を10作選んでおすすめするというものです.したがって,必然的にストーリーが面白く,難解でなく,かつ比較的短い作品が対象になるでしょう. しかしながら,普通に考えて,10作品程度でおさまるはずはないので,ぱっと思いつくものを優先し,今後折に触れ追加していくということにしたいと思います. では,以下に私が中高生にすすめる10作品をリストしてみたいと思います.特に,あまり本を読まない生徒さんを対象にしているつもりですが,適当かどうかは分かりません.また,アフィリエイトを入れると文字数制限を越えてしまったので,2部構成にしたいと思います.( その(2) はここ) (1) 我輩は猫である あまりにも有名で,作品の解説は必要ないでしょうが,最後まで読んだことのある人は少ないのではないでしょうか.漱石の漢籍や欧米文学の素養が,衒学的かつ落語的なユーモアで語られ,とにかく面白いです.三四郎をおすすめしようかと悩みましたが,本をあまり読まない中高生を対象とするのであれば,これのほうがいいのではないでしょうか.そして,漱石の作品の中で,私が最も繰り返し読んだ本はこの作品かもしれません. (2) どくとるマンボウ青春記 北杜夫の作品として,どくとるマンボウシリーズは有名ですが,その中で最も有名なのは,「どくとるマンボウ航海記」でしょう.しかしここでは,北杜夫の入門として,まずこの作品をおすすめしたいと思います.バンカラな旧制高校で著者が過ごした青春時代が,生き生きと,抱腹絶倒な形で,かつノスタルジーを呼び起こすように描かれています. したしもちろん,著者が過ごした青春時代は,精神的には必ずしも明るいばかりではありませんでした.北杜夫の自伝的作品については,そのうちこのブログても書いてみたいと思います. (3) 宇宙衛生博覧会 親としては,子供の健全な育成を願うものですが,しかし自らの中高生時代を振り返ってみれば,健全なる時代を過ごし...

酒虫 (芥川龍之介)

この季節はとにかく暑くて湿度が高く,一年を通じて最も嫌な時期である.外出すると,息をするのも苦しいような暑さと湿度のため耐えられないような気分になり,さらに,汗でシャツがじっとりとしてくると,それがまた不快さを増大させていく. こういった暑い日によく思い出す小説が芥川龍之介の「酒虫(しゅちゅう)」という短編小説であり,今回のエントリでは,それについて書いてみたい. この小説は,もともと,聊斎志異の中にあるエピソードに基づいているという.芥川の酒虫では,昔の中国の或る地方の素封家である,劉が主人公となっている.劉は,人並みはずれた酒豪でもあった.あるとき,この劉の元に,西域から来た一人の僧が訪れる.その僧は,劉がいくら酒を飲んでも酔わないのは,病のせいであるという.そして,その病は,劉の腹中に住んでいる,「酒虫」を取り除かないと治らないというのであった. 劉は,その僧に,酒虫を取り除くよう依頼する.僧は,劉を炎天下の打麦場で裸にして寝転ばせ,動けないよう細引きでぐるぐる巻きにした.そして,酒を入れた素焼の瓶を,劉の枕元に置いた. 暑い.額へ汗がじりじりと湧いてきて,それが玉になったかと思うと,つうっと生暖たかく,眼のほうへ流れてくる.あいにく,細引でしばられているから,手を出して拭うわけには,もちろんいかない.(中略)そのうちに,汗は遠慮なく,まぶたをぬらして,鼻の側から口もとをまわりながら、あごの下まで流れていく.気味が悪いことおびただしい. (中略)―― そのうちに,のどが渇いてきた.(中略)あごを動かして見たり,舌を噛んで見たりしたが,口のうちは依然として熱を持っている.それも,枕もとの素焼の瓶がなかったら,まだ幾分でも,我慢がしやすかったのに違いない.ところが,瓶の口からは、芬々(ふんぷん)たる酒香が,間断なく,劉の鼻を襲ってくる. これでどうして劉の体内にある酒虫を取り除くことができるのか,慧眼なる読者の皆様は気づかれるのではないだろうか.詳しくは,実際の短編を参照されたい. この短編が印象に残っている理由の一つとしては,体の中にある,悪いものがごろっと出てくるような,一種の爽快感があることがあげられるだろう.尾篭なたとえで恐縮だが,排便時の快感に通じるものがあるかもしれない.すなわち,人間の,本能的な快感に訴えかける話とも思われる.筒井康隆に,薬菜飯店とい...

暖簾 (山崎豊子)

小説家の処女作にはその作家のすべてが含まれるといったことは,よく言われることだ.もちろんすべての小説家にあてはまることではないけれども,そのように考えてみると,何人かの小説家のことが思い浮かんでくる.ここでは,そうした小説家であろうと私が考える,山崎豊子と,その処女作「暖簾」(のれん)について書いてみたい. 私が初めて山崎豊子の小説を読んだきっかけは,詳しい状況は忘れたが,大学のころ,友人が白い巨塔をすすめてきたことであった.それから山崎の長編はいろいろ読んだが,内容はすっかり忘れてしまった.ちなみに,私には,フジテレビで放映されたドラマの白い巨塔 ( Wikipediaの記事 ) が印象に残っている.最初から最後まで見たテレビドラマはこれが最後で,今後もう二度とないかもしれない.恥ずかしながら,年甲斐もなくぼろぼろ泣いてしまう回もあった.特に,唐沢寿明はいい役者だと思った. 話をもとに戻すと,「暖簾」は山崎豊子の処女作で,昭和32年に出版された.終戦から12年たち,高度経済成長が始まったころである.それでも戦争の傷跡は当時まだ生々しかったのではないか.このような時代背景のもとに,「暖簾」は出版間もなくベストセラーになったという.まさに,ベストセラー作家としての山崎の出発点である. 「暖簾」は,明治29年に淡路島から大阪に出てきて,それから昆布商人としてのしあがった吾平が,戦争ですべてを失い,その後,吾平の後を継いだ息子孝平が,店を再興するまでの物語である.こうした父子二代に渡る大河ドラマのような筋書きも,まさに後の山崎作品のいくつかの長編ストーリーを彷彿とさせる. そして,この「暖簾」で描かれるのは,著者が言うように,大阪船場の「理想の」商人である.大阪で生まれ育った山崎は,大阪商人に深い思い入れがあったのだ.そしてそういった大阪商人の象徴が,暖簾なのである. こうした大阪商人と,浪花屋の丁稚時代の吾平(このときの名前は吾吉)の様子を,以下に引用してみよう. (中略,吾吉は)旦那はんや,番頭はんの走り使いに追われた.「吾吉っとん」と声がかかると間髪を容れず,「ヘーイ」と答え,用事をいいつかるまでに腰を上げてつま先だち,聞き終わるや,草履をつっかけて表へ飛び出す.その機敏なこつを呑み込むまでは,ノロマ!ドンクサイ!と口汚く罵られた. ある日,吾吉が蔵から昆布を運び出...

二,三羽 ―― 十二,三羽 (泉鏡花)

昨日,以下のエントリが話題となっていた: スズメたちの会話が聞こえてきそう!スイスの郵便配達員のおじさんが庭で撮影した対話するスズメたち http://karapaia.livedoor.biz/archives/52075488.html このエントリを読んで,泉鏡花の短編「二,三羽 ―― 十二,三羽 」を思い出した.例によって,上記エントリと全く関係ない内容になるのだが,ご容赦されたい. 泉鏡花 といえば,「高野聖」「婦系図」「歌行燈」などの作品が有名で,その幻想的な作風で知られている.私はその時代の作家の小説が好きで,泉鏡花についても,有名なものは一度は読んだと思う.残念ながら,私は泉鏡花の熱心な読者ではないけれども,鏡花は好きな作家の一人である.その中でも「二,三羽 ―― 十二,三羽」という小品は好きで,スズメを見たときや,春にツバメが飛んでいるときなど,ふとしたはずみでこの作品のことをよく思い出す. この短編は,泉鏡花の作品の中でも異色の存在ではないだろうか.作者の家の庭に見える,十二,三羽の雀の様子を,作者が描写するという,いってみれば他愛のない内容である.またその内容も,エッセイとも言えれば,小説とも言える,奇妙な作品である.しかしながら,作者が雀たちに向ける視線は,あくまで愛情に溢れているのである. その描写をいくつか引用してみよう.この作品で,作者の妻が,ふとした拍子に子雀をつかまえて,それにざるをかぶせてしまう場面である.それに気が気でない母雀は,すぐにそのざるに飛びついてくるのである.  母鳥は直ぐに来て飛びついた.もうさっきから庭木の間を,けたたましく鳴きながら,あっちへ飛び,こっちへ飛び,飛び騒いでいたのであるから.  障子を開けたままでのぞいているのに,子の可愛さには,邪険な人間に対する恐怖も忘れて,目笊(めざる)の周囲を二,三尺,はらはらくるくると廻って飛ぶ.ツツと笊の目へ嘴(くちばし)を入れたり,さっと引いて横に飛んだり,飛びながら上へ舞い立ったり.そのたびに,笊の中の子雀のあこがれようと言ったらない.あの声がキイと聞えるばかり鳴きすがって,ひっ切れそうに胸毛を震わす.利かぬ羽を渦にして抱きつこうとするのは,おっかさんが,嘴を笊の目に,その…ツツと入れては,ツイと引くときである.  見ると,小さな餌を,虫らしい餌を,親は嘴にくわえてい...

桜の森の満開の下 (坂口安吾)

大学のとき文学部の友人が卒論のテーマとして坂口安吾を選び,そのつきあいで,坂口安吾の小説はだいたい読んだと思う.しかし,今となっては,坂口安吾の有名ないくつかの作品について,ぼんやりと覚えている程度である.ところが最近,スマートフォンや iPad などで青空文庫を簡単に読むことができる環境が充実してきていることもあって,ふたたび坂口安吾の小説を懐かしく読み返している.今回のエントリでは,坂口安吾の小説の中でも最も有名な,「桜の森の満開の下」について書いてみたい.なお,本エントリの引用はすべて青空文庫による. 「桜の森の満開の下」は,概略を述べれば,一見単純な小説のように思える.或る山に,山賊の「男」が住みつくようになった.「男」は,ある日,美しい「女」をかどわかす.二人は山で共に暮らすことになったが,それに飽きた「女」は,以前住んでいた都をあくがれるようになった.そこで「男」と「女」は都で暮らすようになったのだが,やがて「男」は,昔の山こそが自分にとって理想郷であったと思い至る.こうして「男」と「女」は再び山に戻ろうとするのだが,そこで二人はある結末を迎えるのである. もちろん,このような単純なまとめでこの小説を語ることはできない.「桜の森の満開の下」は,不思議な,そして恐ろしい小説である.我々は,この作品を読み進めていくと,次第に,ひやりとした狂気の存在を確かに感じていくようになる.そしてその狂気を生み出すものが,満開の桜の花なのである. 咲き乱れる満開の桜には,確かに狂気がある.梶井基次郎は,「桜の樹の下には」で,それを鮮烈なイメージで描き出した(本ブログのエントリ: 桜の樹の下には ).坂口安吾の「桜の森の満開の下」では,桜の狂気は別の姿をとって現われる. (註: 桜の)花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と跫音(あしおと)ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。 満開の桜の森の下は,静かなままで何の物音もしない.しかし,そ...

坊っちゃん (夏目漱石)

先日のエントリ( 仰臥漫録 (その2) )で夏目漱石の「坊っちゃん」に少しだけふれたこともあり,あらためて読み返してみた.この小説は何度か読んだが,最後に読んでから,かれこれ20年ほどにもなるのではないか.読了後,いろいろと思うことがあったので,ブログの記事にしてみたい. 「坊っちゃん」のストーリーは,単純明快である.「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」性格の坊っちゃんは,東京の物理学校卒業後,四国の田舎の(旧制)中学に教師として赴任する.その直情径行な性格ゆえに坊っちゃんは周囲と様々なあつれきを起こすが,同じような性格の山嵐とは意気投合する.ところが山嵐は,教頭である赤シャツにとって目の上のこぶのような存在であり,ついには辞職させられる.赤シャツは帝大卒の文学士でありながら,陋劣で権謀術数を用いるタイプとして描かれており,英語教師であるうらなりの婚約者であるマドンナを我がものとするため,うらなりを宮崎の延岡においやってしまう.こういった状況に憤った坊ちゃんと山嵐は,芸者遊び帰りの赤シャツとのその太鼓持ちである野だをつかまえ,鉄拳制裁を加える.その後坊ちゃんと山嵐は学校を去り,坊ちゃんは東京に戻って下女の清と再び暮らしたのであった. 「坊ちゃん」の内容は大衆的であり,また小学校の国語教科書にその冒頭の部分が収録されることも多いことから,漱石の作品の中では最もよく読まれているものの一つといわれている.しかしまた,それ故に,この小説はあまり高くは評価されていないように思える.Amazon の書評を2,30読んだ限りでも,好意的な内容でも,痛快な小説である,あるいは,漱石作品への導入としていいのではないか,といったものが多いようだ.一方,否定的なレビューとしては,はっきりと駄作であると決めつけているものも散見した. 確かにそういった意見も一理あるとは思うのだが,私には,「坊っちゃん」という小説はそれだけではないように思われる.では,「坊っちゃん」はどういう作品だろうか.単純にまとめれば,「坊っちゃん」は,敗北と勝利の物語であり,そして,「マドンナ」の物語であるといえるのではないだろうか. もちろん,人生を勝ち負けで分けることには意味がないことは,重々承知しているつもりである.しかし,この小説ではその輪郭があまりにもはっきりしているように思われる(そのことは,こ...

母の眼 (川端康成,「掌の小説」所収)

以前, 掌の小説 (川端康成)  というエントリを書いたのですが,それに対して以下のようなコメントをいただきました. はじめまして、 あの、、、『掌の小説』の中で母の眼という作品について聞きたいことがありまして、 何の意味かなかなか分かりませんね。ですので、あなたの考えがほしいんです。 たとえば、このタイトルはなぜ母の眼なのか。 最後の部分に書いてる「子守女の顔に何と明るい喜びだ。」ここの意味は何だと思ってますか。  https://dayinthelife-web.blogspot.com/2005/08/blog-post_7.html   私は特に教養があるわけでもなく,書評のようなものをこのブログに書いてはいますが,その解釈についても浅かったり間違ってたりするところが多々あるのではないかと思っています.しかし,せっかくのお尋ねでもありますし,自分の考えを書いてみることにしました.少し長くなってしまったので,コメント欄に書くのではなく,独立したエントリにしてみます. この小説のキーとなるのは,「美しい子守女」と「母の眼」ということではないかと思います.まず子守女についてですが,少なくとも戦前までは,貧しい家の年端もいかない女の子が,口減らしやお金を稼ぐために,子守女として奉公に出ることがよくあったようです.このような,子守女としての境遇はつらいものだったようで,子守唄のメロディに悲しいものが多いのは,そのためではないかと思っています.そのあたりの事情については,ざっと検索してみたところでは,たとえば以下のページに詳しいようです. 子守唄にみる幼児労働 http://komoriuta.cside.com/report/kanj20021101a.html 五木の子守唄と子守唄の里 http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/ituki_k.html この小説の主人公である子守女も,このような境遇だったと思われます. ただ,彼女は美しかった.そして,自分の美しさを十分自覚していたが故に,彼女は大きな自尊心を持っていたのだと思われます.これは,この子守女は,勤め先の宿屋の女中など相手にしなかったところからも見て取れます.彼女がおかれた境遇も,かえってその自尊心を強めることになった...

正義と微笑 (太宰治)

はてなブックマーク経由で,学問はなんの役に立つのか,ということについて議論が盛り上がっていたのを知った.こういう話題は多くの人の興味をかき立てるようで,多数のブックマークがつけられている.こういった,学問は何の役に立つか,なぜ勉強しなければならないか,ということについては,太宰治の「正義と微笑」という小説を思い出す.やや散漫な内容になってしまうが,今回思ったことを書いてみたい. 正義と微笑は,16歳の少年が日記を付けているというような体裁をとった小説である.この小説の中で,何のために学問・勉強しなければならないかという問いについて,以下のような一節がある.主人公の「僕」たちのクラスに英語を教えている黒田先生が,退職に当たって,生徒らに以下のように話すのである. もう君たちとは逢えねえかも知れないけど,お互いに,これからうんと勉強しよう.勉強というものは,いいものだ.代数や幾何の勉強が,学校を卒業してしまえば,もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが,大間違いだ.植物でも,動物でも,物理でも化学でも,時間のゆるす限り勉強しておかなければならん.日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ,将来,君たちの人格を完成させるのだ.何も自分の知識を誇る必要はない.勉強して,それから,けろりと忘れてもいいんだ.覚えるということが大事なのではなくて,大事なのは,カルチベートされるということなんだ.カルチュアというのは,公式や単語をたくさん暗記している事でなくて,心を広く持つという事なんだ.つまり,愛するという事を知る事だ.学生時代に不勉強だった人は,社会に出てからも,かならずむごいエゴイストだ.学問なんて,覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ.けれども,全部忘れてしまっても,その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ.これだ.これが貴いのだ.勉強しなければいかん.そうして,その学問を,生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん.ゆったりと,真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ,俺の言いたいのは. この一節は,今でも強く印象に残っている.学問・勉強は何のためにやるか.大事なのは,カルチベート(cultivate)されるということであり,カルチュア(culture)というのは,愛するということを知ることである.それは,学問・勉強の一側面に過...

手鎖心中 (井上ひさし)

井上ひさしの作品は,特に大学生のころ熱心に読んだ.井上ひさしについてはいろいろと言われることはあるが,その作品はやはり一流のものであると思う.その作品世界には強くひかれるものがあり,私にとって,単に好きという以上に思い入れのある作家の一人である.今でも本屋に行くと,必ずその作品を探すのだけれども,最近は本屋の棚に並んでいることが少なく,残念に思っていた.ところが,この手鎖心中は2009年に新装版の文庫となっていたようで,見つけるとすぐに買い,再読してみた.それからまた随分時間がたったのだけれども,ここにエントリを書いてみたいと思う. 手鎖心中は1972年,井上ひさしが38歳のときの作品で,直木賞受賞作でもある.井上ひさしの初期の代表作の一つと言っていいのではないだろうか.今まで何度か読み直したが,その度にいつも感じるのは,ある種はらはらさせられるような,まっすぐさのようなものである.さらにそれは,赤裸々で,どこか痛ましさのようなものを含んでいる.そして,昨年この新装版を買って読み直したときに思ったのは,このような痛ましさ,また,ある種の暗さのようなものは,この作品の主人公であるところの栄次郎に対して向かうのではなく,むしろ,このような小説を書いた(当時の)井上ひさしに対して向うようものではないかということであった.さらに,その思いは,やや痛ましさの度を加えて,私自身にも向かっていくのである. この作品の時代は江戸後期であり,主人公の栄次郎は,百万両分限の材木問屋の一人息子である.栄次郎は,川柳で典型的に描かれるようないわゆる総領の甚六で,くだけて言えばぼんぼんである.栄次郎は絵草紙の作者になりたいと死ぬほど願っているが,一方で,自分にはその才能がないとあきらめてもいる.そこで栄次郎は,その財力にあかせて,この作品の狂言まわしである「おれ」を始めとする,絵草紙作者たちに助力を願い出る.そこで起きる騒動の顛末がこの作品の大まかな流れである. では,栄次郎はなぜそれまでして戯作者になりたかったのか.単に人を笑わせたいだけなら,幇間(たいこもち)になればいいではないか.その問いに,栄次郎は以下のように答える. 「幇間は馬鹿にされるだけだから,つまらないんですよ.わたしは,他人を笑わせ,他人に笑われ,それで最後にちょっぴり奉られもしてみたいんです.中ノ町や深川あたりへ行ったと...

山月記 (中島敦)

本屋やネットなどで,泣ける話の特集といったものを定期的に見かける.それなりに需要があるのだろう.そこで,私にとって泣ける話や小説はなんだろうかと考えているうちに,ある小説の書評を書いてみたくなった.泣ける話とは趣旨がずれるのだけれども,私には,読む度にいつも一滴(ひとしずく)の大きな涙を感じる小説がある.それが,中島敦の山月記なのである. 山月記は高校の国語教科書などに採録され,多くの方が一度は読んだことがあるのではないだろうか.特に,冒頭の格調高い一文は,人口に膾炙している名文の一つとして数えられるだろう. 隴西(ろうさい)の李徴は博学才穎(さいえい),天宝の末年,若くして名を虎榜(こぼう)に連ね,ついで江南尉に補せられたが,性,狷介,自ら恃むところ頗(すこぶ)る厚く,賤吏に甘んずるを潔しとしなかった. 簡にして要を得た硬質な文体で,山月記は綴られる.だが,その物語は,このような格調高い文体とは裏腹に,読む者の心をえぐるかのように続いていく. 山月記の主人公李徴は,自らの才を恃み,官職を辞して詩人として名を残そうとする.しかし,文名は容易に揚がらず,その間にも,彼が以前愚物として歯牙にもかけなかった連中が出世していく.自ら恃みとする才能への懐疑と絶望,俗世間で成功した同輩への羨望,そして,自らの人生への後悔.それらは次第に李徴の心をむしばんでいく.そして遂には李徴は発狂し,虎に身を変えてしまうのである. その後,虎となった李徴は旧友の袁傪(えんさん)に遭遇し,変わり果てた自らの身の上について思いを吐露する.李徴を虎に変えたものは何だったのか.それは,己の心の内で飼い太らせた,臆病な自尊心と尊大な羞恥心だったのである.それこそが虎だったのだ. 己は詩によって名を成そうと思いながら,進んで師に就いたり,求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった.かといって,又,己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった.共に,我が臆病な自尊心と,尊大な羞恥心との所為である.己の珠に非ざることを惧(おそ)れるが故に,敢て刻苦して磨こうともせず,又,己の珠なるべきを半ば信ずるが故に,碌々として瓦に伍することも出来なかった.己は次第に世と離れ,人と遠ざかり,憤悶と慙恚(ざんい)とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった.人間は誰でも猛獣使であり,その猛獣...

野ばら (小川未明)

小さいころの夢は何だったのか,ときどき考えることがある.昔から本を読むことが好きだったので,本を読み,何かを書くような仕事につきたいと子供ごころに考えていたように思う.小学生のころの知識で思いつくそのような仕事といえば,学者や小説家などであろうか.しかし,自分には小説の才能はないだろうという確信みたいなものがあった.もちろん,学者としての才能があるかどうかも疑わしい. しかしそれでも,もし作家になれたとしたら,童話や絵本のようなものが書きたいなと思っていた.恥ずかしながら,大学生のころ,習作のようなものを書いたこともある.アンデルセンの人魚姫の話や小川未明の童話がとても好きで,そんな話が書けたらと考えたのだけれども,もちろんうまくいくはずもない.それ以来,そういった真似事はやっていない. そんなことを思いながら,今日久しぶりに小川未明の童話集を読み返してみた.その小川未明の童話の中でも,「野ばら」という作品にはとても思い入れがある. 「野ばら」では,隣り合う二つの国の国境で,それぞれの国の兵士が一人ずつその国境を警備している.二人は老人と青年である.無聊をかこつ二人はやがて親しくなり,一緒に将棋を指すまでになる. 青年は最初将棋の歩み方を知りませんでした.けれど老人について,それを教わりましてから,このごろはのどかな昼ごろには,二人は毎日向かい合って将棋を差していました. 初めのうちは,老人のほうがずっと強くて,駒を落として差していましたが,しまいにはあたりまえに差して, 老人が負かされることもありました. (中略) 「やあ,これは俺の負けかいな.こう逃げ続けては苦しくてかなわない.ほんとうの戦争だったら,どんなだかしれん」と老人はいって,大きな口を開けて笑いました. 青年は,また勝ちみがあるのでうれしそうな顔つきをして,いっしょうけんめいに目を輝かしながら,相手の王さまを追っていました. 小川未明の童話は,ありありとその情景が目に浮かぶような視覚的なものが多いのだが,「野ばら」のこの場面もそうである.そして,私がこの場面で思い出すのは,将棋が唯一の趣味だった祖父と,その祖父に将棋の手ほどきを受けた小さい頃の私である. いまでも,祖父が,節ばった太い指で器用に将棋の駒をつまみ,動かしていた情景をときどき思い出す.祖父は将棋が強く,最初のうちは歯が立たなかった.私は負...

桜の樹の下には (梶井基次郎)

ここ数年ほどは,新しい小説を読んでも感動することがほとんどなくなった.むしろ,専門書を読むほうがはるかに面白く感じるようになっている.自分が感受性の衰えた無機質な人間になっていくようで,さびしいような思いがある. こうしたとき,よく読み返すのが,梶井基次郎と中島敦の作品である.このエントリでは,梶井基次郎の「桜の樹の下には」について書いてみたい. この,わずか3, 4 ページにすぎない小説が,読む者を惹きつけてやまないのは何故だろうか.この作品の冒頭の一文はあまりにも有名である. 桜の樹の下には屍体が埋まっている! この一文を読んだ読者は,すぐに日常的な空間から引き剥がされてしまうことだろう.そして,読者は,桜が「灼熱した生殖の幻覚させる後光」のようなものを撒き散らしながら美しく咲き誇る理由を,直ちに理解することになるのである.  お前,この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ,一つ一つ屍体が埋まっていると想像して見るがいい.何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得がいくだろう.  馬のような屍体,犬猫のような屍体,そして人間のような屍体,屍体はみな腐爛して蛆(うじ)が湧き,堪(たま)らなく臭い.それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている.桜の根は貪婪(どんらん)な蛸(たこ)のように,それを抱きかかえ,いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて,その液体を吸っている.  何があんな花弁を作り,何があんな蕋(ずい)を作っているのか,俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が,静かな行列を作って,維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ. もはやこの世界には,音もなく狂ったように咲き乱れる桜と,桜に体液を吸い取られる腐乱した屍体とだけが存在する.そこでは時間すら存在しない.蛆のわいた屍体は,水晶のような液体を尽きることなく垂れ流す.その液体を桜は吸い上げ,神秘的に爛漫に咲き乱れる.その対照はあまりにも鮮烈で残酷であり,読む者に狂気をもたらさずにはおかない.桜の花が美しく咲き乱れるのは,腐臭を発する屍体を栄養にしているからである.それ以外の理由はありえない.死をろ過するのではなく,それをすべて吸い尽くすからこそ桜は美しいのである. そしてそれは,永遠に同じように繰り返される,官能的で背徳的な営みである.そのような原初的な世界では,生命の輪廻や連鎖は存在...

MENSURA ZOILI (芥川龍之介)

POP*POPというブログを楽しみに読んでいるのだが,そのブログに以下のような記事があった: 芸術の価値を算出する?!MITの発明、『ART-O-METER』 ART-O-METER は,MITで発明されたガジェットで,芸術作品の評価をしてくれるという.ただ,その原理は簡単なもので,芸術作品の前で人々が立ち止まった時間を測定し,それが長いほどよい作品と判断するということだ.どこまで本気なのか分からないが,大変興味深く感じた. そして,この記事を読んで,芥川龍之介のMENSURA ZOILI という短編小説を思い出した. この小説では,芥川は,ZOILIA (ゾイリア) という架空の国へ向かう船の上の人である.このとき,その船の乗客の一人が,芥川に,ゾイリアで発明された「価値測定器」について話を始めるのである. 「価値測定器というのはなんです」 「文字通り,価値を測定する器械です.もっとも主として,小説とか絵とかの価値を,測定するのに,使用されるようですが」 「どんな価値を」 「主として,芸術的な価値をです.むろんまだその他の価値も,測定できますがね.ゾイリアでは,それを祖先の名誉のために MENSURA ZOILI と名をつけたそうです」 ゾイリアの人間がなぜこのような価値測定器を考案したかというと,「外国から輸入される書物や絵を,いちいちこれにかけて見て,無価値なものは,絶対に輸入を禁止する」ためであるという.芥川はこの価値測定器にかこつけて,友人や自分の作品についてちょっとした皮肉をいうのだが,単にそれだけの小品である. それにしても,MENSURA ZOILI や,上記のART-O-METERの記事で興味深く思ったのは,芸術や小説などを誰にでも分かる尺度で評価したいという願望を,古今東西の誰しもが抱くものなのだという点である.おそらく,この手のものはこれからも様々なものが発明されることだろう(今でも,たとえば,ウェブサイトの価値を評価するツールなどは山ほどある).だが,満足できるものは,今後も出てはこないのではないだろうか.芸術や人生は,そんな単純なものではないと思われる.そして,だからこそ人生の醍醐味があるような気がするのである.

風邪で寝込んだ

金曜の夜から寒気がして,土日は風邪でずっと寝込んでいた.ようやく回復してきたが... 熱でうなされるようで,本を読むなどの頭を使うことができないが,いろいろな思い(妄想?)が頭に浮かぶ.漱石の「行人」で,一郎の依頼で二郎が嫂を連れ出すところがある.その嫂の科白で,以下のようなものがある. 「あら本当よ二郎さん.妾(あたし)死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり,そんな小刀細工をするのは嫌(きらい)よ.大水に攫われるとか,雷火に打たれるとか,猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」 この科白により,読者には,嫂の性格が印象づけられる.この科白が,熱が出た私の頭の中をめぐる. とはいえ,死にたいかといえばそうではない. 死ぬまでに見ておくべき50の芸術作品 | p o p * p o p http://www.popxpop.com/archives/2006/12/piero_dell.html 世の中には,まだ見たことのない美しいもの,経験したことがない素晴しいものがある.やりたいことも,年を経るにつれ,どんどん多くなってくるようだ.そう思うと,死にたくないような思いがしてくる.生への執着というものだろうか.漠然とそういう思いがする.40,50歳と年を取っていくと,そういう思いが強くなってくるのだろうか.それはそれで怖ろしい. まだ熱があるので,まとまりがないが,とにかくそういうことを考えた.

こころ (夏目漱石)

今回,別の本の書評をしようと思ったのだが,つい手に取った夏目漱石の「こころ」を読んでしまい,どうしてもそれについて書きたくなった. この小説は,(今はどうか知らないが) 教科書にも採録され,読書感想文のために読んだ方も多いだろう.漱石の作品の中でも,「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」と並んで,最もよく読まれているものではなかろうか.あまりに有名でありすぎて,いまさら私などがこの小説について書くのもはばかられるほどであるが,やはり一度はこのブログで触れてみたい. 「こころ」は,次の一文で始まる. 私はその人を常に先生と呼んでいた. 私はこの小説を読むたび,まずこの冒頭の一文で,胸が熱くなるような思いがする.この思いは,「先生」を始めとするこの小説の登場人物に対するものに他ならない.最初の部分を読むだけで胸が熱くなるような小説は,あまりないのではないだろうか(他には,宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」も,冒頭だけで胸が締め付けられるような思いがする). 特に,「先生」については,以下の描写をいつも思い出す. 先生は何時も静かであった.ある時は静過ぎて淋しい位であった.私は最初から先生には近づき難い不思議があるように思っていた.それでいて,どうしても近づかなければいられないという感じが,何処かに強く働らいた.こういう感じを先生に対して有(も)っていたものは,多くの人のうちで或は私だけかも知れない.然しその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから,私は若々しいと云われても,馬鹿げていると笑われても,それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしく又嬉しく思っている.人間を愛し得る人,愛せずにはいられない人,それでいて自分の懐(ふところ)に入ろうとするものを,手をひろげて抱き締める事のできない人,― これが先生であった. 人を愛することができる人.それにも係らず,人を愛することができない人.その矛盾が「先生」なのである.そして,その「先生」の本質を,直感的に理解できた「私」.この小説を読むたび,私は,「先生」や「私」に対する,いわば愛情のようなものを感じずにはいられない. 「こころ」のストーリーは,あまりに有名である.「先生」は,その大学生時代,親友のKを裏切る形で奥さんと結婚し,その結果Kは自殺した.「先生」は,両親の死後,親戚に信頼を裏切られたのだが,その自分が今度...