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人間ピラミッドについて

以下の記事を読み,自治体の通告にも関わらず,いまだに危険な巨大組体操を続けている学校関係者に対して,腹が立った. 巨大組体操つづける学校 自治体禁止でも実施、最高段数を記録、頂点から垂れ幕…(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20160619-00058983/ この組体操は,ピラミッドやタワーとも呼ばれるが,最下段の生徒に対する最大負荷は,200kgを超えるという.これではピラミッドが崩壊したときは危険極まりなく,実際,生徒が半身不随等の障害を抱える重大な事故も度々起きているという. このブログに以前書いたように,子供は未来であり希望である.そして,大人は子供を庇護する存在である.教育関係者たるものが何故それが分からないのか.本当に腹立たしい. このように考える過程で,私は,北原宗積による詩「人間ピラミッド」に思いを巡らせずにいられなかった. 人間ピラミッド 気がつくと 父を 母を ふんでいた 父と母も それぞれ 祖父を 祖母を ふんでいた 祖父母も また そのふた親をふみ むかしのひとびとをふみ いのちの過去から未来へと 時のながれにきずかれていく… 人間のピラミッド そびえたつ そのいただきに ぼくは たち まだいない 子に 孫に 未来のいのちに ふまれていた 優れた詩は,読者に無限のイメージを喚起せずにはおかない.ここでの,人間ピラミッドのなんと遥かなることか. 私は,父母を含め,数えられないほど連綿と続く祖先によって生を与えられた存在である.それはあたかも麓(ふもと)すら見えない山脈のようなものであり,その山頂に私は存在しているのである.そして,我々一人一人はすべてそうした存在であり,一人一人がそれぞれの山脈の頂点にいるのだ. このような,山脈と山脈が複雑に入れ組んでいるような情景は,まさに宇宙といっていいのかもしれない.この宇宙の先端に我々は存在している.つまり我々は,生きているだけで奇跡のような存在なのである. そして,我々の上にもまた,まだ存在しない山脈がありうる.この山脈を作ることも一つの奇跡であるが,それをなしうるのが,我々の子供たちなのである.子供は,未来であり希望なのだ.これこそが,人間のピラミッドなのである. 一方で,巨大組体操でなされている人間...

自分が世界の主人公でないと気づいたのはいつだったか

はてな匿名ダイアリーで,以下のような記事があった: 自分が世界の主役じゃないって気づいたのはいつだったか http://anond.hatelabo.jp/20151210070424 これを読んで,井上靖の詩集「北国」所収の「流星」という詩を思い出した. 日本ペンクラブ:電子文藝館  から記載する: 流 星 高等学校の学生のころ、日本海の砂丘の上で、ひとりマ ントに身を包み、仰向(あおむ)けに横たわって、星の流 れるのを見たことがある。十一月の凍った星座から、一 条の青光をひらめかし忽焉(こつえん)とかき消えたその 星の孤独な所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かした ものはなかった。私はいつまでも砂丘の上に横たわって いた。自分こそ、やがて落ちてくるその星を己が額に受 けとめる、地上におけるただ一人の人間であることを、 私はいささかも疑わなかった。 それから今日までに十数年の歳月がたった。今宵、この 国の多恨なる青春の亡骸(なきがら)――鉄屑(てつくず) と瓦礫(がれき)の荒涼たる都会の風景の上に、長く尾を ひいて疾走する一個の星を見た。眼をとじ煉瓦を枕にし ている私の額には、もはや何ものも落ちてこようとは思 われなかった。その一瞬の小さい祭典の無縁さ。戦乱荒 亡の中に喪失した己が青春に似て、その星の行方は知る べくもない。ただ、いつまでも私の瞼(まぶた)から消え ないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する 星というものの終焉のおどろくべき清潔さだけであった。 この詩集についてはこのブログで何度か言及したことがある.私はこの詩集が本当に好きで,繰り返し読んだ. 私は多分,物心ついたときから,自分が世界の主人公であるとは思ったことはない.やがて落ちてくる星を,己が額に受け止めるにふさわしい人材とも思ってない.今後もそうだろう. しかし,この世にはこの詩集を心から愛する人が数多く存在し,自分もその一人であるということを,いささかも疑ったことはない.世界における自分の役割とは,そんなところなのかもしれないし,それでいいではないかとも思ったりする.

名前をつけてやる (スピッツ)

先日,「 名前について 」というエントリを書いたのですが,それで,スピッツの「名前をつけてやる」という曲のことを思い出しました. スピッツといえばほとんど草野マサムネですが,その詩には独特な感性があるのと,声が好きで,結構長い間聴いています.この曲はスピッツでも初期のころの曲ですが,やはりいい曲ですね.

名前について

年度末で忙しく,本ブログも放置気味である.しかし,twitter 等で,更新を楽しみにされている方がいらっしゃることが分かったので,まとまりがない内容であっても,とにかく更新を心がけるようにしたい.今月は,少なくとももう一つ書いてみたいと思っている. そこで本題であるが,はてなブックマークにあがったエントリで,いわゆるDQNネームに関するものを見かけた.DQNネームとは何であるか,また,具体的にはどのエントリか,といったことについては,あまり愉快な内容ではないので,これ以上は言及しない.ただ,そのエントリを読んで,名前をつけること,名前を呼ぶこと,そして,そもそも名前というのは何であるか,といったことについて考えることがあったので,ここに書いてみたい. 名前というのは不思議なものだ.単純に考えれば,それは,人を区別するためのラベル,識別子にすぎない.しかしながら,名前というものは,それにおさまらない神秘性をもつのである.これは以前,はてなの某日記にも書いたのだけれども,名前の持つ神秘性ということについて思いを致すとき,私は,ゲド戦記のことをいつも思い浮かべてしまうのである. このゲド戦記の世界観について,Wikipedia から引用してみる ( Wikipedia: ゲド戦記 ): この世で最初の言葉を話したセゴイによって海中から持ち上げられ創られたと伝えられる、太古の言葉が魔力を発揮する多島世界(アーキペラゴ)・アースシーを舞台とした魔法使いゲドの物語。 アースシーのうち、主にハード語圏では森羅万象に、神聖文字で表記される「真(まこと)の名前」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名で呼び合う。 名前というものが持つ魔力や神秘性を,これほど見事に生かした物語は他にないのではないだろうか.なお,このような名前に関するタブーというものは,世界各地にあったらしく( Wikipedia: 諡名 の,「実名敬避俗」の節を参照),ゲド戦記ももともとはそれを参考にしたものかもしれない. そこで,このような名前をつける,あるいは,名前を呼ぶということの神秘性については,古来,さまざまな文学作品がそのことをテーマとしてきた.それについては,いろいろと思い浮かべる作品があり,今後このブログでおいおい書いていきたいと思うのだが,...

I was born (吉野弘)

ここ数年,高校の教科書を読む機会がある.この年になって読む教科書は,自分が高校生だった頃に感じた以上に面白く感じる.特に,私の高校時代の現代文教科書に載っていた題材が,いまだに採録され続けているのを見つけると,非常に興味深く感じる.たとえば,吉野弘の現代詩「I was born」などがそうである.こうした作品を読むと,高校のときの自分と,現在の自分との違いについて,さまざまな思いが浮かんでくる.今回のエントリでは,例によってまとまりがないが,I was born という詩について,そうした思いを書いてみたい. I was born では,「僕」は,ある発見を興奮したようにその「父」に話す: そのとき僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した.僕は興奮して父に話しかけた ――やっぱり I was born なんだね―― 父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ.僕は繰り返した. ――I was born さ.受身形だよ.正しくいうと人間は生まれさせられるんだ.自分の意思ではないんだね―― だが「父」は,「僕」の発見に応えようとせず,一見関係のない話を始める.  父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした. ――蜻蛉(かげろう)という虫はね 生まれてから二,三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何のために世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね―― そして「父」は,ちょうどそのころ「僕」の「母」が亡くなったと話す.だが「僕」も,「父」の意図が分かったわけではなかった.  父の話のそれから後は もう覚えていない.ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった. ―ほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体―― この詩を読むと,いつも,高校生のころ初めてこの詩を読んだときに感じた思いを思い出す.それは,決して好意的なものではなかった.むしろ反発のようなものであったと思う.その思いをもう少し詳しく書いてみよう. この詩の中で,「父」は,「僕」に何かのメッセージを伝えようとしている.それは,あえて残酷でかつ単純な見方をすれば,「僕」のせいで「母」が死んだとも取られかねないものである.ただ,そういった単純なものではなく,「父」が伝えたかったのは,もっと一般的な,人生のある恐ろしい真実のようなもの...

東北関東大震災

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初めに,今回の東北地方太平洋沖地震において被害に会われた方々に心からお見舞い申し上げます. 今回の震災に際して,実生活でもできることはやっておりますが,このブログの範囲でもできることはないかと考えました.もとより,有用なことが書けるとは思っておらず,また,まとまりのない内容になりましたが,少しでも共感できるものになっていれば幸いに思っています. ここ数日,ニュースの報道を見るたびに,つらい思いをしております.震災に遭われた方々がどれほど悲痛な思いをなされているか,想像するさえ耐えられないような気がします.私にも知り合いが福島,茨城におり,地震直後の週末は,安否確認等でいろいろと心痛めておりました. もちろん,今後予断を許さないとはいえ,現段階では大きな被害に遭ってない私は,震災者の皆さんのつらい思いを分かっているとは言えないでしょう.けっきょく自分の身に引きかえていろいろいと想像しているにすぎず,そうした点からは遣り切れない思いもします. それでも,ここ数日,知り合いとの連絡や,多くの町を飲み込んだあの巨大津波などの映像をそれこそ一日中見続けた結果,大きなストレスを感じるようになりました.いわゆる PTSD (心的外傷後ストレス障害)については,経験したわけではありませんが,なるほどあり得るだろうというような実感を持つに至っています. それで,今日まで,生産的なことは何もやる気が起きませんでした.このブログも,どうせ大したことも書いてないし,いっそ閉じてしまったほうがせいせいすると思ったくらいです.そんなときに,以下の写真を見ました.仙台空港に避難している男の子が撮影した女の子の写真だということです. 【東日本大震災】仙台空港に避難している男の子が撮影した女の子。過酷な状況にもかかわらず元気いっぱいだった=13日午後、宮城県名取市の仙台空港 - MSN産経ニュース https://sankei.jp.msn.com/affairs/photos/110313/dst11031319000085-p1.htm いままで悲惨な映像ばかり見てきたせいか,この写真を見たときには,恥ずかしながら涙が出てきました.また,大した被害にも会ってない私が,つらいだなどとネガティブな気分になっていることが情けなくなりました.私たち大人は,これらの子供がこの笑顔のままに生きていくことがで...

宇宙の無限と人間の小ささ

一週間ほど前になるが,以下のような記事を見かけた. ブラックホール、あと500年で衝突か 「超接近」発見 http://www.asahi.com/science/update/1201/TKY201012010175.html  約500年でぶつかるほど近くにある二つの超巨大ブラックホール(BH)を、国立天文台や岐阜大、名古屋大の観測チームが見つけた。重さは太陽の8億倍と12億倍。お互いの距離は0.02光年で、どんどん接近している。宇宙の歴史から考えると、500年は衝突直前に等しい。BHが衝突、合体して大きくなっていくという仮説の有力な証拠になりそうだ。1日付の米専門誌に掲載された。 急接近!衝突直前のブラックホール、初観測 http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20101130-OYT1T01171.htm  同天文台の井口聖准教授らは、2003年に発見したふたつのブラックホールが放出する電波を3年間以上にわたり観測。その結果、大きい方の質量は太陽の12億倍、小さい方は8億倍あることが分かった。電波の強度が変動する周期などから、双方の距離は0・02光年(1900億キロ)しか離れておらず、急接近していることも突き止めた。500年前後で衝突し、一つに合体すると予想される。 二つのブラックホールが衝突しつつあるという記事であるが,小さいほうのブラックホールでも太陽の「8億倍」(太陽の質量は,惑星や銀河の質量を表す単位として用いられる.参照「 太陽質量 」)で,それらは0・02光年(1900億キロ)「しか」離れておらず,500年後にぶつかるという衝突「直前」の状況にあるというから,いかにも天文学的な,スケールの大きい話である. このような,無限ともいうべき宇宙の大きさを実感できるサイトとして,以下のウェブページがある. Nikon | ニコン チャンネル | ユニバースケール https://www.jp.nikon.com/company/corporate/sp/universcale/ 私はこのサイトが好きで,ときどき訪問する.この映像を見ていると,宇宙の大きさが文字通り想像すらできないものであるということが感覚的に分かり,くらくらしてくる.同時に,この宇宙の大きさに比較して,我々人間が如何に小さな存在であるかということも実感...

BBC の詩のページ

この分だと7月はブログを更新できなさそうなので,ちょっとした情報を書いてみたい. BBC Learning English の記事を更新しようとして,いろいろと BBC のサイトを見たり情報を集めたりしていたとき,以下のページを発見した. BBC - Poetry Season - Homepage - Discover poetry and vote for your favourite poet http://www.bbc.co.uk/poetryseason/ これは,BBCのウェブページで,イギリスの詩人に関する情報を集めたものである.ミルトンやブレイク,バイロンから始まって,T. S. エリオットはもちろん,現代の詩人に至るまで,イギリスで有名な詩人については,伝記,代表的な詩,動画などのさまざまなコンテンツが掲載されている.残念ながら,著作権管理の関係からか,動画などは日本では見られないようだ.いずれにしても,現在のところはそれほど充実した内容ではないようで,多少まとまった時間があれば,めぼしいところをすべて見ることは可能かもしれない.イギリスの詩に興味のある方は,一度ご覧になるのもいいかもしれない. 関連エントリ: ウェブリブログのRSSで広告表示

人間の限界 (ゲーテ)

Amazon があまりに便利なので,本を買うのは Amazon にすることが多くなった.しかしそれでも,本屋には,Amazon などのインターネットショップには替えがたい魅力がある.自分の興味がない分野も含めて,さまざまな分野の新しい本・雑誌が並んだ本棚,意匠をこらした本の装丁,本の独特の重み,質感,香り,活字を読みながら一枚一枚ページをめくるときの喜び,これらはやはり本屋でしか味わえないものである.本屋に入るときは,たとえそれが行きつけの本屋であっても,わくわくする. また例によって話はそれたが,今日本屋に行って一つの発見があったので,それについて書いてみたい.自分の無知を晒すようで,恥ずかしい話でもあるのだが. その本屋でふと手に取った「ゲーテ詩集」(新潮文庫)に,「人間性の限界」という詩があったのである.気になったので原題を見てみると,「Grenzen der Menschheit」という.ドイツ語は分からないので,AltaVista の Babel Fish Translation を利用して英語に翻訳してみると,「Borders of mankind」となる.つまり,逐語訳だと「人類(あるいは人間)の境界」となるだろうか.調べてみると,この詩の題は,「人間性の限界」あるいは「人間の限界」と訳すのが一般的のようだ. 以前,霜山徳爾先生の書籍「人間の限界」について記事を書いた( 2006年3月5日のエントリ ).古今東西の文学・哲学に造詣の深い先生のことであるから,もちろん,この詩を念頭に置いた上でこの本を書かれたに違いない.なお,上記エントリにも書いたのだが,霜山先生には「人間の詩と真実」という名著もあり,これはゲーテの「詩と真実」に基づいている.そのことは「人間の詩と真実」の中に書いているのだが,先生の「人間の限界」の中には,書名の由来は書かれていなかったように思う.見逃しているだけかもしれないが. いずれにせよ,「人間の限界」のような思い入れのある本の書名の由来を今まで知らなかったとは,自分の無知が恥ずかしくなるばかりであるが,それでもその由来を知ることができたのは望外の喜びである. ここで,ゲーテの詩「人間性の限界」(高橋健二訳)の一部を紹介しておきたい. ・・・ 神々と人間とを 分かつものは何ぞ? 神々の前にては 波さまざまに姿かえて流るれど, 流る...

イカロス (三島由紀夫)

ある晴れた夏の日,山に車で行った.休憩のとき,車から降りると,空の青と入道雲の白が眩しかった.そこから見える平野部の町並みの景色が素晴らしい.なんとはなく,感傷的な気分になった.そして,ふとイカロスの神話について思った. この時代,アテナイ人は,クレタの王ミノスに納めるべき生贄のことで悩まされていた.生贄は7人の少年と7人の少女であり,人身牛頭の怪物ミノタウルスの餌食となるのである.ミノタウルスは,名工ダイダロスがクレタ島に作った迷宮(ラビュリントス)に飼われていた.この迷宮は大変巧みに出来ており,いったん迷い込んだが最後,その出口を見つけることは不可能であったという. この怪物ミノタウロスを退治するために,アテナイの王子テーセウスがやってくる.テーセウスと,ミノス王の娘アリアドネは恋に落ちる.アリアドネは,ミノタウルスを倒すための剣と,一つの糸鞠をテーセウスに与える.この糸鞠は,迷宮を脱出するための手段としてダイダロスが作ったものであった. テーセウスは首尾よくミノタウルスを仕留め,アリアドネとともにクレタ島を出奔する.しかし,アテナのお告げにより,アリアドネをナクソスの島に置き去りにして,テーセウスはアテナイに帰ってしまう. 一方で,ダイダロスの振る舞いに激怒したミノス王は,ダイダロスとその息子イカロスを塔に監禁する. ダイダロスは,イカロスとともにこの塔を脱出するため,鳥の羽を集め,糸と蝋で固めて翼を作る.父子はこの翼で空を飛び,塔を脱出した.ダイダロスはイカロスに言う.「イカロスよ,空の中ほどを飛ばなければいけないのだよ.あまり低すぎると霧が翼の邪魔をするし,またあまり高すぎても熱気で溶けてしまうから,私のそばにくっついておいで・・・」 しかし,イカロスは有頂天になり,父の命に背き,天高く翔けて行く.やがて太陽の熱で,翼をとめていた蝋が溶けてしまい,ばらばらになってしまう.イカロスは墜落し,青海原の真ん中に落ちて死んだ.この海は,イカロスの海と呼ばれることになった.また,ダイダロスが嘆き悲しんでイカロスの遺体を葬った土地はイカリアと名づけられたという. この神話に何か寓意があるとすれば,いろいろと考えることが出来るだろう.旧約聖書におけるバベルの塔の逸話のように,神の高みを目指した人間の僭越や冒涜とも思えるし,鳥のように空を飛んでみたいという人間の希求,その...

無限の下降

idea*idea http://www.ideaxidea.com/ の記事「ダンス!ダンス!ダンス!」 http://www.ideaxidea.com/archives/2005/07/post_26.html で知ったフラッシュ. http://www.izpitera.ru/lj/tetka.swf (追記: 2005年11月1日現在,上記フラッシュはリンク切れとなっているようです.Google で探せばいろいろとアーカイブがあるようで,たとえば http://soap.chattablogs.com/archives/flash/tetka.swf で見つかるようです) 女性が,球体の障害物にぶつかりながら,重力に従って落ちていく.結構リアルである.こういった人体の動きは簡単にシミュレートできるものなのか. よくできてるものだと感心しながら見ていたが,しばらくするとくらくらしてきた.一人の人間が,なすすべもなく永遠に落ちていくのである.それはあたかも,あくまでも無力な一人の人間に与えられた罰のようにさえ思われてしまう.落ちていく,永久に... 小さいころ,「板子一枚下は地獄」という諺を初めて知ったときに感じた怖さに通じるものがある.自分の下にある底なしの暗闇.恐怖の最も根源的な形かもしれない. いかんいかん考えすぎだ.ともかく,これを見て,金子光晴の有名な詩「落下傘」を思い出した. (中略) 月や虹の映る天体を ながれるパラソルの なんといふたよりなさだ. だが,どこへゆくのだ. どこへゆきつくのだ. おちこんでゆくこの速さは なにごとだ. なんのあやまちだ. (中略) ゆらりゆらりとおちてゆきながら 双(ふた)つの足うらをすりあはせて,わたしは祈る. 「神さま. どうぞ.まちがひなく,ふるさとの楽土につきますやうに. 風のまにまに,海上にふきながされてゆきませんやうに. 足のしたが,刹那にかききえる夢であつたりしませんやうに. 万一,地球の引力にそつぽむかれて,落ちても,落ちても,着くところがないやうな, 悲しいことになりませんやうに.」

詩集「北国」 (井上靖)

前のエントリ で触れた,珠玉の作品集について.ここでは,井上靖の詩集「北国」について書いてみたい. 井上靖についてはもう説明するまでもあるまい.「あすなろ物語」「しろばんば」などの自伝的な作品,「天平の甍」「楼蘭」「蒼き狼」「敦煌」などの歴史作品,その他「氷壁」など,誰しも一度は少なくともその題名は聞いたことがあるであろう,数多くの名作を生み出した.また,映画やドラマになった作品も多い. この井上靖の作品の中で,私が最も大きな感銘を受けた作品が,詩集「北国」である.私が持っているのは新潮文庫の文庫本であるが,もう絶版になっているようで,入手しづらいかもしれない. 「北国」は,38篇の詩集を収めた,井上靖の最初の詩集である.それぞれの作品は,詩といっても,散文の形式をとっており,近代詩の系譜の中でも独自のポジションを占めているのではなかろうか.これらの詩に共通して感じられるのは,ある広がりをもった静謐な空間である.そしてこの空間は,作者の研ぎ澄まされた詩情,抒情,愛と哀しみに満ち満ちている.またそれらは,非常に豊かなイメージをかきたてるものが多いものの,絵画でも音楽でもない.やはり,詩としか言いようのない空間である.これらの詩を介して,我々は作者の魂を感じ取ることが出来るのである. 38編の詩はそれぞれまさに珠玉としかいいようがないが,その中でも,特にいくつかの詩をここでは紹介したい.例によって内容に一部触れるので,未読の方は注意. 「海辺」…国語の教科書にも載っている有名な作品.青春への嫉妬と憧憬. 「愛情」…5歳の子供の相手をするときに突然突き上げてきた,烈しい愛情と深い寂寥. 「生涯」…「若いころはどうにかして黄色の菊の大輪を夜空に打揚げんものと,寝食を忘れたものです.漆黒の闇の中に一瞬ぱあつと明るく開いて消える黄菊の幻影を,幾度夢に見て床の上に跳び起きたことでせう.しかし,結局,花火で黄いろい色は出せませんでしたよ.」 一生を花火に捧げた老花火師の言葉.人生なるものへの畏れ. 「流星」…「私はいつまでも砂丘の上に横たわつてゐた.自分こそ,やがて落ちてくるその星を己が額に受けとめる,地上におけるただ一人の人間であることを,私はいささかも疑はなかつた.」 青春の情熱,矜持,孤高.それらは刹那に輝く,本来孤独なるもの.それゆえに哀しく美しい. 「高原」…いのちの悲...