イエスは地面に何を書いていたか

しばらく間があいてしまったが、本ブログのエントリ「ChatGPT とヨハネによる福音書」の続きを書いてみたい。

先のエントリに書いたように、ヨハネによる福音書に、イエスが地面に何かを書いていたという場面がある。しかし今となっては、イエスが書いたその内容は知られていない。現在、その内容についてはいくつかの説があるのだが、私は、それらの説にしっくりこない気持ちを抱いていた。一方で、私なりに思うところもあるので、改めて自分の思いをエントリにまとめてみたい。それは、識者にとって失笑される内容かもしれないが、恥をかくのを気にしていたらブログなどとても書けない。ので、気にしないことにする。

前置きが長くなったが、最初に、イエスが地面に書いていた場面を簡単に説明しよう。以下では手抜きだが、ChatGPT による説明を再掲することにする:

この場面は、ファリサイ人たちが罪を犯した女性を持ってイエスの前に連れてきて、イエスに「この女性は、姦淫の現場で捕まりました。モーセは、このような女は石打ちにして殺せと命じていますが、あなたはどう思いますか?」と問いかけたときに起こりました。イエスは、何も言わずに地面に指で何かを書き始めました。その後、ファリサイ人たちがイエスに対して質問を繰り返すと、イエスは「あなたがたの中で罪のない者が最初に石を投げるがよい」と答えたとされています。

この後、イエスは「そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた」(ヨハネ8:8)

この場面では、ファリサイ人が、イエスを陥れようとしているのである(ヨハネ8:6)。当時、この女を石打ちにすることもしないことも、イエスにとっては困難な状況であった。そしてイエスは、ファリサイ人の問いには答えず、地面に何かを書いて、その間に上記の有名な言葉を語ったのであった。


ここで印象的なのは、やはり地面に何かを書いていたイエスの振舞いである。あまりに奇妙で、唐突ではないだろうか。単に上記のセリフ(「あなたがたの中で罪のない者が最初に石を投げるがよい」)を言うだけでこのエピソードは完結するのに、なぜわざわざ地面に何かを書く必要があったのか。そして、イエスは何を書いたのか。

当然、イエスは、自らを陥れようとしたファリサイ人の悪意を完全に見抜いていただろう。そこで、もしイエスが私のような凡夫であれば、世の中馬鹿ばかりと絶望して、いじけて地面に何かを書いてしまったのかもしれない。だがもちろん、そうではなかった。

しかし、それでもこの場面では、イエスとの断絶のようなものを感じずにはいられない。イエスは、ファリサイ人を始めとする愚かな我々人間を、見捨てることはなかったにせよ、少なくとも地面に何かを書いていた時間は、人間と対話することは念頭になかったのではないだろうか。

このようないわば断絶感から、イエスが地面に何かを書いていたときの様子を推し量ってしまう。そこには、神とイエスしかいなかった。イエスは神に語りかけていた。そして神は、おそらくイエスを静かに見守っていたのではないか。

イエスが神に語り掛けた言葉は、あるいは祈りのようなものだったかもしれない。この言葉こそが、イエスが地面に書いていたことでなかったか。そして、背中を丸めて地面に何かを書いているイエスの姿は、孤独である。

では、イエスは具体的に何を書いていたのか。その内容は知られていない。しかし、上に書いたように考えを進めていくと、私は、イエスはファリサイ人のたくらみなどとは超越した、一般的な祈りのようなもの、つまり、人々を救ってください、あるいは、人々を愛してくださいといったことを、イエスは神に祈っていたのではないかと思われてならないのだ。ひょっとすると、詩篇のなにかの一節のようなものであったかもしれない。そして、イエスにとって、このときは神しか見えなかったのではないだろうか。

そしてまた、ふと考えてしまうのだ。イエス自身がもし父なる神そのものであったとすれば、このときイエスは誰に語りかけているのか? つまりその問いは、イエス自身への救済や愛は誰から与えられるのかという問いにつながっていく。

こうした問いは、私がクリスチャンではないからできるものしれない。クリスチャンの人は、イエスは全知全能の存在だから、自身の救済などは必要ないし、愛そのものの存在だから、他から与えられるものではないと考えるだろう。それはそうかもしれない。だが私は、ヨハネによる福音書の上記の箇所を読むと、全宇宙に一人で存在するイエスに、孤独の極北のようなものを感じずにはいられないのである。


そうして考えを続けていくと、私は、地面に何かを書いていたイエスの姿が、人類の罪を一身に背負って磔になったイエスの姿と重なって見えてしまうのだ。ひょっとするとイエスは、この時もう自分の運命が見えていたのかもしれない。ペテロなどの弟子にも他人のように扱われ、一人で死んでいくイエスの姿はあまりにも孤独であった。


上に書いてきたことは、私の妄想でしかないかもしれない。しかし私は、上記の場面を読むと、背中を丸め、果てしない道を一人でとぼとぼと歩いていくようなイエスの姿を思い浮かべてしまうのである。ひょっとすると、神とは、そんなものかもしれない。そして、その姿の根底にほのかに存在するものこそ、愛というものの本質かもしれないと思ってしまうのである。



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