正義と微笑 (太宰治)

はてなブックマーク経由で,学問はなんの役に立つのか,ということについて議論が盛り上がっていたのを知った.こういう話題は多くの人の興味をかき立てるようで,多数のブックマークがつけられている.こういった,学問は何の役に立つか,なぜ勉強しなければならないか,ということについては,太宰治の「正義と微笑」という小説を思い出す.やや散漫な内容になってしまうが,今回思ったことを書いてみたい.


正義と微笑は,16歳の少年が日記を付けているというような体裁をとった小説である.この小説の中で,何のために学問・勉強しなければならないかという問いについて,以下のような一節がある.主人公の「僕」たちのクラスに英語を教えている黒田先生が,退職に当たって,生徒らに以下のように話すのである.


もう君たちとは逢えねえかも知れないけど,お互いに,これからうんと勉強しよう.勉強というものは,いいものだ.代数や幾何の勉強が,学校を卒業してしまえば,もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが,大間違いだ.植物でも,動物でも,物理でも化学でも,時間のゆるす限り勉強しておかなければならん.日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ,将来,君たちの人格を完成させるのだ.何も自分の知識を誇る必要はない.勉強して,それから,けろりと忘れてもいいんだ.覚えるということが大事なのではなくて,大事なのは,カルチベートされるということなんだ.カルチュアというのは,公式や単語をたくさん暗記している事でなくて,心を広く持つという事なんだ.つまり,愛するという事を知る事だ.学生時代に不勉強だった人は,社会に出てからも,かならずむごいエゴイストだ.学問なんて,覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ.けれども,全部忘れてしまっても,その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ.これだ.これが貴いのだ.勉強しなければいかん.そうして,その学問を,生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん.ゆったりと,真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ,俺の言いたいのは.


この一節は,今でも強く印象に残っている.学問・勉強は何のためにやるか.大事なのは,カルチベート(cultivate)されるということであり,カルチュア(culture)というのは,愛するということを知ることである.それは,学問・勉強の一側面に過ぎないかもしれないが,本質に近いところに cultivate ということがあるように思うのだ.


それにしても,16歳という多感な少年の内面を描く,太宰のみずみずしい感性には感銘を受けざるを得ない.たとえば,以下のような「僕」の述懐がある.「僕」は一高を受験しようと思っているが,合格は難しいとも感じている.帝大生である兄の才能・華やかさに比べ,「僕」にはなんの才能もないような気がして,滅入ってしまうのである.


ああ,誰かはっきり,僕を規定してくれまいか.馬鹿か利巧か,嘘つきか.天使か,悪魔か,俗物か.殉教者たらんか,学者たらんか,または大芸術家たらんか.自殺か.本当に,死にたい気持にもなって来る.


将来の希望にあふれた16歳のころ,一方で,自分が万能の存在でないことも理解できている.自分は一体何者であるのか,未来の自分はどのようなものになっているか.そういった,おののくような思いは誰しも一度は抱えたことがあるのではないだろうか.だからこそ,このような「僕」の述懐は多くの人を共感させるに違いない.


この作品は,太宰治の中では傑作とは言えないかもしれない.それでも,この小説を読むと,私は太宰治の小説が好きなんだということを再認識させられるのである.




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