クリスマス・キャロル (チャールズ・ディケンズ)

いよいよ明日、元号が平成から令和に変わる。元号に意味はないと考えることもできるが、それでも一つの時代の区切りを表すものなのではないか。するとその移り変わりは、いわば生まれ変わりを連想させずにはおかない。そう考えるといろいろな物語のことが思い浮かぶが、このエントリでは、ディケンズによるクリスマス・キャロルについて書いてみたい。


と言っても、クリスマス・キャロルはあまりにも有名な小説で、今さら私などがブログに書くのも躊躇してしまう。私自身何度も読んだし、映画化も何度もされている。主人公のスクルージは、守銭奴の代名詞として英単語になっているほどだ (https://en.wiktionary.org/wiki/scrooge)。しかし、屋上屋を架すのもブログの醍醐味であり、臆面もなくエントリにしたいと思う。


クリスマス・キャロルは、スクルージという老いた商人の改心の物語である。スクルージは、単純に言えば守銭奴で、無慈悲で冷酷な男である。造形としては、現代では典型的なキャラクターに思われるだろう。そのスクルージのもとに、過去・現在・未来を表す三人の精霊(幽霊と訳すこともある)が現れ、それをきっかけとして、スクルージは生まれ変わったかのようになるのであった。


この物語は、クリスマスがどんな意味を持つかが分からないと、真に理解できないのかもしれない。したがって、非キリスト者てある私が、クリスマス・キャロルを語ることについては、ある種の後ろめたさを感じる。それでもあえて言うならば、私は、この物語を読むとき、イエスのあの有名な言葉をいつも思うのだ:


この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。 (マタイによる福音書 4:17)


しかし、クリスマス・キャロルは、単にスクルージの悔恨と改心の物語ではないのではないか。三人の精霊が訪れたのち、スクルージは実質的に死んだ。そして、再び新たな生を生きた。むしろそれは、再生というより新生という言葉がふさわしい。つまりスクルージは、復活したイエスを想起させる存在なのかもしれない。そう考えると、スクルージは生まれながらの守銭奴ではなく、生きてきた環境によってそうならざるを得なかったという見方もできるだろう。


いずれにせよ、クリスマス・キャロルは、死と生の物語である。そして死に続くその生は、永遠に続くのである。


一方で我々は、生で始まり、死で終わる存在である。我々の存在は、限りを持つ。つまり我々には、スクルージにあったような救いがないのだろうか。我々は、スクルージのような守銭奴にもなれないし、また、生まれ変わりもない存在なのてある。


しかし私は、我々には救いがあると信じている。それが、「子供」という存在の本質ではないか。ここで言う「子供」は、生物的な子供のみでなく、より広い意味での概念である。すなわち、血がつながってることは、「子供」の本質ではない。たとえば、人によっては、仕事の成果を自分の子供のように考えることもあるだろう。


そう考えてくると、牽強付会な話であるが、最初の精霊により少年時代や青年時代のスクルージが現れることや、2番目の精霊のときにティム(スクルージの会計助手クラチットの末子)の話があることも、示唆的であるように思われる。


そして、私は思うのだ。いつかは我々は、子供に裏切られるかもしれない。少なくとも、子供はいつかは我々を離れていくだろう。それでも、我々は、「子供」が存在したことですでに救われているのである。


クリスマス・キャロルも、その後の物語において、スクルージは、自分の子ではないティムによって真に救われることになるのではないか。あたかもレ・ミゼラブルにおいて、ジャン・バルジャンがコゼットによって救われたように。


我々は、いつかは死ぬ。生物学的には新生のない、限りある存在である。そのような我々に、イエスの復活をもたらすのが、子供という存在である。すなわち「子供」とは、愛ということであるかもしれない。




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