人と人に架ける橋

以下のエントリを読んで、興味深く思った。


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上記エントリを読んで特に思いをはせてしまったのは、橋についてである。橋とは、一体何であろうか。


もちろん辞書的に言えば、橋は、対岸へ渡ることを目的とする建築物のことである。しかし、橋は、人にとって、その語義を超えた意味を持つように思うのだ。


橋というものを考えるとき、いつも私の頭に浮かぶのは、水上勉の文章である。


水上勉は大正8年、福井県に生まれた。その父は寺社大工といっても貧しく、水上は9歳から家を出され、瑞春院(京都)の徒弟となった。このような背景は、後の水上作品にたびたび描かれている。


たとえばその一つに、「生きるということ」という作品(新書)がある。そのエッセイにある以下の文章は、水上の生い立ちとともに、橋というものを語り、読むものの心をしみじみ揺さぶるのである:


 小さいころ、母はよく、谷の奥に私をつれていって、蓑(みの)一枚ぐらいしかない小さな田の畦(あぜ)にすわらせ、自分は胸までつかる汁田(しるた)で苗を植えていた。この谷は暗くて、一日に陽が三時間ほどしか射さなかった。村でもきわめて貧しい谷であった。そんな谷の口に私たちの家があった。谷には畑もあった。そこで、母は芋や大根をつくった。ここへゆくのに、深い川が一つあった。木橋がかかっていたが、大水のたびによく流失したので、母はよく橋普請した。(中略)母は、自分一家の収穫のための谷田へわたされた橋を、その生涯に何度架けただろう。(中略)

 私は、九歳でこの母に別れた。京都の寺へ小僧に出たからだが、故郷のことを思うと、母の架けていた橋が瞼(まぶた)にうかんだ。今日も、それはうかぶ。旅をしていて、汽車が、似たような山の谷をすぎると必ずうかぶ。ああ、日本という国は、どうして、こんなに似た谷や山が多いのか。青森でも、四国でも、九州でも、わが在所の谷と似た谷をみた。それらのいずれの谷にも、奥へゆくと、小さな橋が架かっているだろう、と私は思ったものだ。


同書でさらに水上は、続けて、名古屋市熱田にあった、裁断橋(さいだんばし)の擬宝珠(ぎぼし)に書いてある碑文を紹介する。それによれば、豊臣秀吉の小田原の陣に従軍して死んだ、堀尾金助という若者の三十三回忌を供養するために、母がこの橋を架けたという。


てんしやう十八ねん二月十八日、をだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申(まうす)、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける成(なり)、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人は、念仏申給へや、丗三年(さんじゅうさんねん)のくやう也


18歳の子を亡くした母。その悲しみは、想像することすら拒否したくなる気がする。少なくとも言えるのは、その悲しみは、その子の死後三十三年たっても全く癒えることはなかったということである。そしてその思いは、豊臣秀吉の時代から現代に至るまで、時を超えて人の心を打たずにはおかないのである。この碑文を読んだ水上勉は、涙を流したという。


こうして私は、改めて考えてしまうのである。橋とは何か。


人は、一人一人それぞれの懸崖の奥に住んでいる存在なのかもしれない。そして、それぞれの懸崖は深く、互いに行き来することは難しい。つまり、もともと人は分かり合えないように思えるのである。


しかし、それらの懸崖を越えて、人と人とを繋ごうとする意志は、強く確実に存在する。それは、水上勉の母や、堀尾金助の母が持っていた思いである。それこそが、愛というものであり、未来から我々に差し込んでくる希望なのではないだろうか。


こうした、人と人をつなごうとする思いが成就したもの、それが橋というものの本質のように思えるのである。だからこそ、橋は美しいし、人の心を打つのだろう。





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