坊っちゃん (夏目漱石)

先日のエントリ(仰臥漫録 (その2))で夏目漱石の「坊っちゃん」に少しだけふれたこともあり,あらためて読み返してみた.この小説は何度か読んだが,最後に読んでから,かれこれ20年ほどにもなるのではないか.読了後,いろいろと思うことがあったので,ブログの記事にしてみたい.


「坊っちゃん」のストーリーは,単純明快である.「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」性格の坊っちゃんは,東京の物理学校卒業後,四国の田舎の(旧制)中学に教師として赴任する.その直情径行な性格ゆえに坊っちゃんは周囲と様々なあつれきを起こすが,同じような性格の山嵐とは意気投合する.ところが山嵐は,教頭である赤シャツにとって目の上のこぶのような存在であり,ついには辞職させられる.赤シャツは帝大卒の文学士でありながら,陋劣で権謀術数を用いるタイプとして描かれており,英語教師であるうらなりの婚約者であるマドンナを我がものとするため,うらなりを宮崎の延岡においやってしまう.こういった状況に憤った坊ちゃんと山嵐は,芸者遊び帰りの赤シャツとのその太鼓持ちである野だをつかまえ,鉄拳制裁を加える.その後坊ちゃんと山嵐は学校を去り,坊ちゃんは東京に戻って下女の清と再び暮らしたのであった.


「坊ちゃん」の内容は大衆的であり,また小学校の国語教科書にその冒頭の部分が収録されることも多いことから,漱石の作品の中では最もよく読まれているものの一つといわれている.しかしまた,それ故に,この小説はあまり高くは評価されていないように思える.Amazon の書評を2,30読んだ限りでも,好意的な内容でも,痛快な小説である,あるいは,漱石作品への導入としていいのではないか,といったものが多いようだ.一方,否定的なレビューとしては,はっきりと駄作であると決めつけているものも散見した.


確かにそういった意見も一理あるとは思うのだが,私には,「坊っちゃん」という小説はそれだけではないように思われる.では,「坊っちゃん」はどういう作品だろうか.単純にまとめれば,「坊っちゃん」は,敗北と勝利の物語であり,そして,「マドンナ」の物語であるといえるのではないだろうか.


もちろん,人生を勝ち負けで分けることには意味がないことは,重々承知しているつもりである.しかし,この小説ではその輪郭があまりにもはっきりしているように思われる(そのことは,この小説が文学的に見て稚拙なところがあるということかもしれない).では,この小説における敗者は誰か.それはまず,坊ちゃんと山嵐である.二人は確かに赤シャツと野だいことに制裁を加えることはできたが,それによって学校の体制が変わることも,固陋な田舎に風穴があくこともなかった.坊っちゃんや山嵐の反抗は,結局のところ単なる憂さ晴らしに過ぎることはないのであり,痛快というよりもむしろ痛々しい.そしてこの痛々しさは,漱石作品に流れる,ある種の虚無感のようなものにつながっている.


一方,赤シャツや野だはどうだろうか.彼らは,おそらく彼らなりに幸せな人生を歩むように思われる.特に,赤シャツは,マドンナと結婚することになるだろう.そして,結婚後もおそらく芸者などに浮気するだろうが,帝大出の文学士ということで,順調に出世した人生を歩んでいくのではないだろうか.しかし,赤シャツや野だに通じる浅薄さや皮相さにおいては,漱石は,当時そのような開化を遂げつつあった日本を連想していたに違いない.そしてそれは,漱石が最も否定するところのものであったろう.その意味では,赤シャツも野だも明らかな敗者である.


では,「坊っちゃん」における勝者は誰だろうか.それは,マドンナであり,清である.言い換えれば,この小説では,敗北するのは男性であり,勝利するのは女性であるという示唆がなされているのではないだろうか.


マドンナとうらなりは,元の鞘に戻ることはないだろう.マドンナは赤シャツと結婚し,陰口をきかれたり赤シャツの浮気などがあったりしても,だいたいは幸せな人生を歩んでいくように思われる.この小説には,マドンナ自身の描写はあまりないが,いずれにせよ,後の漱石作品に繰り返し描かれた典型的な女性像を彷彿とさせるものがある.


そして,「坊っちゃん」における真の意味での勝者は,清といえるのではないだろうか.この小説は,いろいろと紆余曲折があっても,清に始まり清に終わるように思われる.坊っちゃんと清の間の愛情はあまりにも細やかである.


車を並べて停車場へ着いて,プラットフォームの上へ出たとき,車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません.随分ご機嫌よう」と小さな声で云った.目に涙が一杯たまっている.おれは泣かなかった.しかしもう少しで泣くところであった.汽車がよっぽど動き出してから,もう大丈夫だろうと思って,窓から首を出して,振り向いたら,やっぱり立っていた.何だか大変小さく見えた.


おれは空を見ながら清のことを考えている.金があって,清をつれて,こんな奇麗な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう.いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない.清は皺苦茶(しわくちゃ)だらけの婆さんだが,どんな所へ連れて出たって恥かしい心持ちはしない.


赤シャツがホホホホと笑ったのは,おれの単純なのを笑ったのだ.単純や真率が笑われる世の中じゃしようがない.清はこんなときに決して笑ったことはない.大いに感心して聞いたもんだ.清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ.


考えると物理学校などへ入って,数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも,六百円を資本(もとで)にして牛乳屋でも始めればよかった.そうすれば清もおれの傍(そば)を離れずにすむし,おれも遠くから婆さんのことを心配しずに暮される.いっしょにいるうちはそうでもなかったが,こうして田舎へ来てみると清はやっぱり善人だ.あんな気立てのいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない.婆さん,おれの立つときに,少々風邪を引いていたが今頃はどうしてるか知らん.先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう.それにしても,もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた.


坊っちゃんと清の間の愛情については,この小説のラストシーンが白眉といえるだろうが,ひょっとしたら未読の方もいらっしゃるかもしれないので,ここには掲載しない.


清は,坊ちゃんに対し無私の愛情を注ぎ,また坊ちゃんもそれに応えた.漱石の作品「それから」(本ブログの記事)では,主人公代助は,「自然の児」であろうとし,最終的に三千代を選んだ.このような自然の児の一つの理想的な形が,清や坊っちゃんではないだろうか.


そしてこのように考えてくれば,「マドンナ」という言葉の意味が思い浮かぶ.「マドンナ」はイタリア語であり,狭義には聖母マリアという意味がある.漱石がその意味を知らなかったことはありえない.「坊っちゃん」の登場人物であるマドンナのことを描くとき,漱石は,聖性を持ちイノセントな存在としてのマリアのことを思い浮かべ,そして清のことを考えたのではないだろうか.坊っちゃんと清の間の愛情表現があまりに細やかなのも,そうした思いがあるからのように感じられるのである.そういう意味では,この小説の真の意味でのマドンナは,清ということができるのかもしれない.


一方,うらなりの婚約者だったマドンナは,マリアはマリアでも,マグダラのマリアと漱石は対比させていたのではないだろうか.そこまで考えればうがちすぎになるかもしれないが,いずれにせよ,小説「坊っちゃん」は,二人のマリア(マドンナ)の物語であるとみなすのも,あながち無理な理解ではないように思われる.


久しぶりに坊っちゃんを読んだせいか,後の漱石作品のことも含めて,いろいろと考えさせられることになった.「坊っちゃん」を痛快小説と読むのも駄作とみなすのも一理はあると思うが,もう少し重視されてよい作品であるように思われる.




関連エントリ:



コメント

このブログの人気の投稿

LaTeX メモ - 数式における「|」 (縦線, vertical bar)の扱い(その2)

人間はどんなところでも,どんな時でも何歳からでも学ぶことができる

ブログを始めるにあたって - 継続は力

イエスは地面に何を書いていたか

へんろう宿 (井伏鱒二)