古代国語の音韻に就いて (橋本進吉)

以前,人から薦められて面白かった本について書いた(美しい星 (三島由紀夫)).今回のエントリでは,「古代国語の音韻に就いて」(橋本 進吉 (著),岩波文庫)を紹介したい.


「古代国語の音韻に就いて」は,大学に入学した年,文系の友人にすすめられて読んだ本である.大学で,本格的な学問や自由な雰囲気などを初めて経験し,全国から集る様々な個性を持った友人に刺激され,熱に浮かされたようになっていた時期だったように思う.このようなときに薦められた本であるから,印象に残っている.岩波文庫であることと,題名にある「古代国語」や「音韻」等の言葉から,大学生ともなると難しそうな本を読むものだと感心した記憶がある.一方で,薄い本であるし,大したことはないだろうという,若い頃にありがちな反発のような感情も覚えた.考えてみれば,この本を薦めてくれた友人も,私と同様,大学進学後の熱に浮かされたような状態でこの本を読み,感銘を受けたのかもしれない.今となっては懐かしい気がする.いずれにせよ,これが予想外に面白い本であった.


本書の内容は,古代の音韻の変遷に関する,著者の講演に基づいている.音韻の種類は,言語により異なるのはもちろんであるが,同じ言語であっても,時代や地域によって異なってくる.そこで,古代の音韻は現代とは異なっていることが当然予想されるわけであるが,それを調べようとすれば,当時の文献,すなわち,文字としてのみ残された情報を調べるしかない.ところが,それは容易な作業ではない.たとえば,一般的に言って,異なる文字でも発音が同じ場合(現代の「お」「を」の発音等)もあれば,同じ平仮名でも異なる発音となる場合(例:「こうし」は,「孔子」と「犢」では発音が異なる)もある.このような困難さの上で,本書は,古代(特に奈良時代以降)にどのような発音がなされていたかを,著者の研究に基づいて諄々と述べていく.その過程は大変スリリングであり,学問の面白さを堪能させられる.


本書のはじめの部分で,橋本は,仮名遣いの使い分けに関する契沖や本居宣長の研究を紹介する.契沖は,古事記や万葉集を渉猟し,万葉仮名が厳密に使い分けられていることを発見した.たとえば,現代における「お」を表す文字として,「意」「於」「淤」「乙」などが用いられ,どれも区別なく使われる(置き換え可能である)ことが分かった.一方で,「を」には「遠」「乎」「鳴」「怨」などが用いられる.さらに,「意」「於」「淤」「乙」等を,「を」を表すために用いることは決してなく,逆に,「遠」「乎」「鳴」「怨」等を,「お」の意として用いることは決してない.このような仮名遣いの厳密な区別が,他の文字にもある(「い」と「ゐ」,「え」と「ゑ」等)ことを発見したのである.それから,本居宣長は,これらの仮名遣いの違いが発音の違いによるものであることを明らかにした.これらの研究から,奈良時代には,いろは47文字がそれぞれすべて違う音韻を表していることが分かってきたのである.さらに,奥村栄美が,あ行の「え」と,や行の「え」も異なる音であったことを発見した.


こうなると,同じ文字にも関わらず,発音が異なるものが存在する可能性が生じる.この点については,本居宣長の弟子,石塚龍麿が研究をすすめ,「え,き,け,こ,そ,と,ぬ,ひ,へ,み,め,よ,ろ」の13の仮名それぞれが,甲類・乙類に分類できる音を持っていることを明らかした.すなわち,清濁あわせ,85種類もの音韻があったことが分かったのである.橋本はさらに研究を推し進め,奈良時代には,計88種類の音韻があったと結論付けるに至った.さらに,甲類・乙類の違いが,文法の活用の違いに関連付けられることを明らかにしたのである.


本書の議論は大変示唆に富み,また想像力をかき立てるものであるので,言語の音韻というものについて様々な思いを馳せてしまう.たとえば,音韻の種類が古代に遡るにつれより複雑で多くなっていくのならば,奈良時代以前,特に,有史以前は,いまよりはるかに多くの音韻があったのだろうか.あるいは,最初は単純であった音韻が,時代がたつにつれ複雑になり,ある一定の多様性を迎えてから,現代に至るまで減少の一途をたどったのか.また,現代的な研究手法として,すべての文献をデータベース化し,統計的な手法を利用すれば,さらに多くのことが分かるかもしれない(以前,情報処理学会の学会誌でそのような特集があったような気がするが,失念).また,当時の人間の骨格や絵画などのデータから,医学的に発音についてある程度分かるのかもしれない.


話がそれてしまったが,本書での著者の語り口は,淡々としており,また平易である.そこには一切の虚飾はない.しかしながら,その研究が,膨大な文献の精密な調査に基づいていることを確信させられる.また,結論に至る論証は極めて明晰であり,かつ緻密である.本物の学問のみが持ちうる迫力に満ちており,読者に知的興奮を感じさせずにはおかない.そして,本書の解説にもあるように,この研究が光を当てたものは,他の研究者を刺激し,後のさまざまな研究の契機となったに違いない.これらは,どんな分野であれ,偉大な研究業績に共通する特徴である.研究を志す人には是非すすめたい一冊である.




追記(2008年7月15日)


上代特殊仮名遣については昭和50年代に異説が出され,現在に至るまでも上代母音についての結論が出たわけではないそうです.


上代特殊仮名遣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3%E3%81%84



それにしても,本書の素晴らしさが損なわれることはないと思いますが.



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