人の悲しみや苦しみについて

もう一週間前の話題になるが,はてなブックマーク最近の人気エントリー経由で,以下のブログエントリを読み,大変感銘を受けた.


ある個人史の終焉
http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071016/1192538763


このエントリを読んで,人の喜びや悲しみについて,時にふと感じることを書いてみたいと思った.なお,以下に書くことは,上記エントリとは全く関係ないということを申し添えておきたい.あくまでも,上記エントリがきっかけとなって,このエントリを書こうと思ったということにすぎない.


我々は,他人のどんな喜びも悲しみも苦しみも,真に理解することはできない.喜びや苦しみは,ある出来事に対する瞬間的な感情ではなく,その人が生まれてから今に至るまでの時間に基づくものだからである(より正確には,人類の長い歴史もそこには影響するだろう).そこで,少なくとも,その人のそれまでの時間を完全に共有しなければ,真の理解はありえない.しかし,そのような完全な共有はもちろん不可能である.


我々にできるのは,自分の経験に照らし合わせて,その人の喜びや悲しみを推し量ることだけである.しかしそれは結局のところ想像であって,それがその人の思いと完全に一致することはほとんどありえないだろう.これを逆に考えると,自分がどんなに喜び苦しんでも,それを他人に真に理解してもらうことはありえないということである.喜びや悲しみは結局のところ個人的なものでしかあり得ない.


だが,問題を更に悲劇的でかつ複雑なものにしているのは,それが本当に個人的であるかということである.個人的であるということは,その人に固有の問題ということである.これは,オリジナルと言い換えてもよい.しかし,人の喜びや苦しみは,オリジナルなものなのであろうか.このことについて,以下では,喜びではなく,特に悲しみや苦しみの感情について考えてみたい.その方が問題の所在に焦点を当てやすいように思えるからである.


人が苦しんでるのを周りから見て,同情しにくい場合というのは多々ある.この典型的な例としては,その苦しみの理由が「よくあること」に思われるような場合が挙げられる.卑近な例をあげれば,失恋した,試験に落ちた,仕事で失敗したというような状況である(もちろん,より悲惨な例もあるだろう).これらの状況は,本人にとっては耐え難いほどに苦しいことだろう.しかし,他人にとってみればそれはよくあることにすぎない.さらにいえば,どんなに苦しいような場合でも,世の中には,或いは歴史的な状況では,ほとんど似たような状況で,それよりもより苦しい状況におかれた人などいくらでもいることだろう.


このように考えてみれば,苦しみは個人的なものではなく,結局,類型的なものにすぎないのではないかとすら思えてくる.トルストイは,その作品アンナ・カレーニナの冒頭で,「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり,不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきがことなっているものである」と書いた.だがしかし,それは正しくなく,不幸や悲しみすら似かよっているのではないか.すなわち,人は,その自身の哀しみや苦しみすら,完全には所有できないのではないだろうか.


これはなんと悲劇的なことだろう.苦しみや悲しみは,他人に理解してもらうことは出来ない個人的なものである.だがしかし,それが真に個人的なもの,すなわち,オリジナルならまだ救いがあるかも知れない.ところが,その苦しみが個人的なものではなく,単なる類型的なものにすぎないとしたら,人間の苦しみや悲しみというのは意味があることなのであろうか.それが意味がないものであるとすれば,人間の存在というのはどういうことだろうか.


そうした疑問や矛盾は,解決不可能なものかもしれない.そして人は,それらを抱えて,あるいは折り合いをつけて生きていくしかないのかもしれない.それこそが最も哀しいことかもしれないと,時々ふと考えてしまうのである.



コメント

このブログの人気の投稿

LaTeX メモ - 数式における「|」 (縦線, vertical bar)の扱い(その2)

人間はどんなところでも,どんな時でも何歳からでも学ぶことができる

ブログを始めるにあたって - 継続は力

へんろう宿 (井伏鱒二)

イエスは地面に何を書いていたか