孤独地獄 (芥川龍之介)

今日は別のエントリを書こうと思ったのだが,ちょっと気が変わったので.


某ブログのエントリで,「人生は楽しんだ者が勝ち」といった内容を読んだ.確かにその通りであろう.そのことについて反論するつもりはないが,こういったエントリを読むと,芥川龍之介の短編「孤独地獄」のことをときどき思い出す.


「孤独地獄」の主要な登場人物は,津藤と,禅寺の住職禅超の二人である.いずれも幕末の大変な通人で,特に禅超は,出家にもかかわらず酒色をほしいままにしてきたらしい.二人は,吉原の玉屋でひょんなきっかけで知り合ったのだった.


ある日,津藤は,禅超の様子がおかしいことに気づく.そのこともあって二人はいつになくしんみりとした話をするのだが,その際禅超は以下のような話をするのである.


仏説によると,地獄にもさまざまあるが,およそまず,根本地獄,近辺地獄,孤独地獄の三つに分かつことができるらしい.それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄(なんせんぶしゅうのしもごひゃくゆぜんなおすぎてすなわちじごくあり)という句があるから,大抵は昔から地下にあるものとなっていたのであろう.ただ,その中で孤独地獄だけは,山間曠野樹下空中(さんかんこうやじゅかくうちゅう),どこへでも忽然として現れる.いわば目前の境界(きょうがい)が,すぐそのまま,地獄の苦艱(くげん)を現前するのである.自分は二三年前から,この地獄へ堕ちた.一切の事が少しも永続した興味を与えない.だから何時でも一つの境界から一つの境界を追って生きている.勿論それでも地獄は逃れられない...


放蕩三昧で,遊びという遊びを極めた禅超が至った境地が孤独地獄だったのである.


このエピソードが,私には強烈な印象となって残っている.


世の中にある,エピキュリアン的な姿勢に常に影のようなものが寄り添うのはなぜだろうか.快楽を尽くしても孤独と絶望の影は消えない.むしろ,快楽を求めるのは,孤独と絶望から目をそらすためであるかのようである.


このような孤独というものは,無視できない重みをもって誰の胸にもあるようなものではないかと思われる.そう考えると,快楽よりも孤独のほうが人生の本質に近いのかもしれない.そんなことをふと思って,人間は哀しいと感じることがあるのである.



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