野ばら (小川未明)

小さいころの夢は何だったのか,ときどき考えることがある.昔から本を読むことが好きだったので,本を読み,何かを書くような仕事につきたいと子供ごころに考えていたように思う.小学生のころの知識で思いつくそのような仕事といえば,学者や小説家などであろうか.しかし,自分には小説の才能はないだろうという確信みたいなものがあった.もちろん,学者としての才能があるかどうかも疑わしい.


しかしそれでも,もし作家になれたとしたら,童話や絵本のようなものが書きたいなと思っていた.恥ずかしながら,大学生のころ,習作のようなものを書いたこともある.アンデルセンの人魚姫の話や小川未明の童話がとても好きで,そんな話が書けたらと考えたのだけれども,もちろんうまくいくはずもない.それ以来,そういった真似事はやっていない.


そんなことを思いながら,今日久しぶりに小川未明の童話集を読み返してみた.その小川未明の童話の中でも,「野ばら」という作品にはとても思い入れがある.


「野ばら」では,隣り合う二つの国の国境で,それぞれの国の兵士が一人ずつその国境を警備している.二人は老人と青年である.無聊をかこつ二人はやがて親しくなり,一緒に将棋を指すまでになる.


青年は最初将棋の歩み方を知りませんでした.けれど老人について,それを教わりましてから,このごろはのどかな昼ごろには,二人は毎日向かい合って将棋を差していました.


初めのうちは,老人のほうがずっと強くて,駒を落として差していましたが,しまいにはあたりまえに差して,

老人が負かされることもありました.


(中略)


「やあ,これは俺の負けかいな.こう逃げ続けては苦しくてかなわない.ほんとうの戦争だったら,どんなだかしれん」と老人はいって,大きな口を開けて笑いました.


青年は,また勝ちみがあるのでうれしそうな顔つきをして,いっしょうけんめいに目を輝かしながら,相手の王さまを追っていました.


小川未明の童話は,ありありとその情景が目に浮かぶような視覚的なものが多いのだが,「野ばら」のこの場面もそうである.そして,私がこの場面で思い出すのは,将棋が唯一の趣味だった祖父と,その祖父に将棋の手ほどきを受けた小さい頃の私である.


いまでも,祖父が,節ばった太い指で器用に将棋の駒をつまみ,動かしていた情景をときどき思い出す.祖父は将棋が強く,最初のうちは歯が立たなかった.私は負けるたびに悔しくて何度も対局をせがんだ.祖父にとってもそれは嬉しかったのではないだろうか.しかし,その祖父ももう亡くなった.


「野ばら」を読むたびに浮かぶ思い出の中では,いつも祖父と私は将棋を指している.そこでは祖父は元気なままであり,私は小さいころの私のままである.将棋に勝った祖父は気の毒そうな,それでもまた嬉しそうな表情をしている.私はといえば,将棋に負けて,悔しさのあまり泣きそうになるのをぐっとこらえている小さい頃の私のままである.何十年過ぎようとそれは変わらない.



もちろんこれは私だけの思い出であり,「野ばら」を読んでこのような思いをいだく人も少ないだろう.だが,いずれにせよ,私には,このような思いをさせる小説はやはり書くことはできない.そういう意味では,私には小説の才能がまったくないのだろう.しかしそれでも,「野ばら」を読んで祖父のことを懐かしく思い出し,また,小さい頃の自分の夢などについて思いをはせるとき,この宝石のような小説をただ味わうだけの立場も幸せなことだと思うのである.



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