青春ピカソ (岡本太郎)

「青春ピカソ」は,20世紀最大の芸術家であるピカソへの礼讃と,ピカソに芸術家として挑戦することを訴えた,岡本太郎の芸術論であり,人生の書である.この本を読む前,私が岡本について知っていたのは,「芸術は爆発だ」というどこかで聞いたセリフや,太陽の塔の製作者であり岡本かの子の息子であるといった,いわばありきたりの知識だけであった.ところが,本書は,岡本太郎に対するそのような私の理解を根底から覆すものであった.


本書「青春ピカソ」に現れる岡本太郎の筆致は,あくまでも理知的である.これは,20歳そこそこからパリに移り住み,様々な芸術活動を行うとともに,パリ大学で哲学などを学び,バタイユらと親交を深めたという,岡本のバックグラウンドによるものかもしれない.


しかしながら,本書において読む者の心を揺さぶらずにはおかないものは,むしろ,その理知的な文章では隠しようのない,岡本太郎の燃えさかるような情熱である.このような岡本の性質は,両親,特に,奔放な人生を歩んだ母かの子ゆずりのものなのであろうか.岡本太郎の激しい情熱は,破壊をイメージさせずにはおかない.そしてその破壊こそが,本書の芸術論の根底にあるものなのである.


このような岡本太郎の性格が持つ熱情を表すのは,セザンヌとピカソの作品を見たときのエピソードだろう.まだ20そこそこであった岡本は,セザンヌの絵を初めて見たとき,突き上げてくる感情に耐えられず,涙をぼろぼろと流してしまう.これから,岡本は,自らの芸術のために苦難と苦闘の2年半をすごす.そしてその後,ふと寄った画商の店で,岡本はピカソの絵に運命的に出会うのである.


これだ!全身が叫んだ.―― 撃って来るもの,それは画面の色や線の魅力ばかりではない.その奥からたくましい芸術家の精神がビリビリとこちらの全身に伝わって来る.グンと一本の棒を呑み込まされたように絵の前で私は身動き出来なかった.


ピカソの絵を見て,強烈に魂を揺さぶられた若き日の岡本は,帰りのバスの中で,あふれる涙を止めることができない.


―― あれこそ,つきとめる道だ ―― 繰り返し繰り返し心に叫んだ.バスの乗客たちに見られないように,顔を車窓から街の方にそむけていたが,とめ度なく涙が湧いて出たのを覚えている.それは静かにあふれていたが,勇躍歓喜の涙に近いものであった.


ピカソの絵と運命的な出会いを遂げたこの場面は,読む者の心をも感動させずにはおかない.そして,ピカソの作品を全身全霊をもって理解できた岡本は,やはり優れた天賦の才を持った芸術家であったに違いない.同じ時代に生きる天才は,必ず何らかの手段で知り合うものである.ここで岡本がピカソの絵に出会ったのは,偶然ではなく必然であったろう.


そして,ピカソの圧倒的な巨大さは,岡本太郎の芸術家としての人生に大きな影響を及ぼすのである.岡本のピカソ礼讃は,並大抵のものではない.


セザンヌやゴッホの前では,われわれは希望的である.しかしピカソの前では,その未完成的な表情にかかわらず,すべては完了したという虚無感しかない.いったいこのピカソからわれわれは何を取ることが出来るだろう.ピカソのみ輝いている.周りは全部闇である.そしてその闇の中にわれわれは立たされているのだ.


ここで描かれているのは,神としてのピカソであり,それに対する讃仰である.しかしながら,芸術家としての岡本太郎は,そこに立ち止まることはない.岡本は,火の出るような思いをこめて主張するのである.ピカソが神のごとき存在であればこそ,神棚から引きずりおろし,堂々と挑まなければならないと.


 芸術は自然科学と異なり,連続的な発展をたどるよりも断絶によって創造的に飛躍する.この発展形式は非連続の連続なのである.神は斃(たお)されなければならない.ピカソの権威が新しい芸術家によって打倒されることは芸術史の要請である.全世界において,未だにそれがなし遂げられていないということ,そこにこそ現代芸術の不幸な停滞があり,最大の危機があるのだ.

 重ねて言うように,これは一大至難事である.だが否が応でもこの自覚と,それへの決意なしに今日真の芸術家たることはできないのだ.


芸術だけではなく,どんな分野でも,ピカソのような神のごとき存在はいるだろう.多くのものは,それを単に仰ぎ見ることしかできなかっただろうし,神に挑戦できるのは,才能を持った,いわば特権的な存在の人間にしかできないことであるかもしれない.それにしても,このような神はいつかは別の神に引きずりおろされるということが,有史以来繰り返されてきたのだ.普段,易きに流されがちな私でも,それを思うと,奮い立つような気がするのである.


岡本太郎の芸術の到達点が,どんなものであったのかは私は知らない.しかし,神ピカソはいつかは斃されることだろう.そして,それをできるものは,岡本のような情熱をもつものであるに違いないと思うのだ.



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