創造するということ,観る(見る)ということ

先日,岡本太郎の「青春ピカソ」という本について,エントリを書いた.この本は,160ページ程度の薄い本なのだけれども,刺激的でまた考えさせられる内容に満ちており,読むたびに強い感銘を受けてしまう.今回のエントリでは,前のエントリでは書けなかったことで,いつも共感する内容を一つだけ書いておきたい.


「鑑賞と創造」という節で,岡本太郎は以下のように主張する.


 いったい芸術において単に眺めるという立場があり得るだろうか.真の観賞とは同時に創るということでなければならない.観ることと創ることは同時にある.(中略)

 創るとは決してキャンバスに向かって筆をとり,絵の具を塗ることだけではない.それはまったく形式的で素朴な考えだ.己れの世界観に新しいホリゾンを打ち開くことが実はクリエートなのである.真に芸術作品に対した場合,鑑賞者は己れの精神の中に何らかのセンセーションによって,新たに何ものかが加えられる.というよりもむしろ己れ自身に己れが加えるのであるが.精神は創造的昂揚によって一種のメタモルフォーゼを敢行する.だから芸術作品と対決する以前と以後の鑑賞者の世界観,平たくいえば物の観方自体が質的に飛躍するのである.つまり創造であって,そのような創造の場なしには芸術,並びに芸術鑑賞は成り立ち得ないのである.だからこそ観るということは同時に創ることなのだ.


そして,このような創造としての鑑賞こそが,岡本太郎がピカソ作品に対峙したときになされたことであった.


...対する作品がきわめて先鋭で強力である場合,それは挑戦というもっとも緊張した立場をとって可能となる.そしてもし作者以上積極的に対決を挑むならば,鑑賞者は何らかの形において創作家をのり超えるのである.つまりピカソ芸術はただに讃仰するばかりでは鑑賞自体が成り立たないのだ.

 彼の狂暴なまでに闘争的な作品にぶつかり,反復するエネルギーに驚倒し,打ちのめされ,反発し,嗟嘆し,嫌悪,歓喜する.そして彼の芸術,その強烈なドラマをマスターしなければならないのだ.これこそピカソをのり超える可能性であり,また真のピカソ鑑賞法なのである.その精神は創作者の立場とまったく同質である.


一般的に言って,鑑賞ということは,創造に比べれば一段下の人間的営為に思われがちではないだろうか.しかし,岡本太郎にあっては,消極的な,傍観者としての「見る」という行為はありえなかった.鑑賞は,作品に対する闘争であり,自己の破壊を伴う一種のメタモルフォーゼなしにはありえない.その意味で,鑑賞は創造と同質なのである.


いろいろと本を読んでいても,琴線に触れるということはそれほど多くはない.しかし,岡本太郎の文章には強く惹かれるものを感じる.これは,その理知的な文章の下にある燃えあがるような情熱に,強く共感する思いが私の中にあるからかもしれない.そして,ピカソの作品を,心の底から礼賛し,その一方で,それに対する挑戦をやめることがなかった岡本太郎の芸術家としての姿勢に,強く惹かれるものを感じるのである.




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