手鎖心中 (井上ひさし)

井上ひさしの作品は,特に大学生のころ熱心に読んだ.井上ひさしについてはいろいろと言われることはあるが,その作品はやはり一流のものであると思う.その作品世界には強くひかれるものがあり,私にとって,単に好きという以上に思い入れのある作家の一人である.今でも本屋に行くと,必ずその作品を探すのだけれども,最近は本屋の棚に並んでいることが少なく,残念に思っていた.ところが,この手鎖心中は2009年に新装版の文庫となっていたようで,見つけるとすぐに買い,再読してみた.それからまた随分時間がたったのだけれども,ここにエントリを書いてみたいと思う.


手鎖心中は1972年,井上ひさしが38歳のときの作品で,直木賞受賞作でもある.井上ひさしの初期の代表作の一つと言っていいのではないだろうか.今まで何度か読み直したが,その度にいつも感じるのは,ある種はらはらさせられるような,まっすぐさのようなものである.さらにそれは,赤裸々で,どこか痛ましさのようなものを含んでいる.そして,昨年この新装版を買って読み直したときに思ったのは,このような痛ましさ,また,ある種の暗さのようなものは,この作品の主人公であるところの栄次郎に対して向かうのではなく,むしろ,このような小説を書いた(当時の)井上ひさしに対して向うようものではないかということであった.さらに,その思いは,やや痛ましさの度を加えて,私自身にも向かっていくのである.


この作品の時代は江戸後期であり,主人公の栄次郎は,百万両分限の材木問屋の一人息子である.栄次郎は,川柳で典型的に描かれるようないわゆる総領の甚六で,くだけて言えばぼんぼんである.栄次郎は絵草紙の作者になりたいと死ぬほど願っているが,一方で,自分にはその才能がないとあきらめてもいる.そこで栄次郎は,その財力にあかせて,この作品の狂言まわしである「おれ」を始めとする,絵草紙作者たちに助力を願い出る.そこで起きる騒動の顛末がこの作品の大まかな流れである.


では,栄次郎はなぜそれまでして戯作者になりたかったのか.単に人を笑わせたいだけなら,幇間(たいこもち)になればいいではないか.その問いに,栄次郎は以下のように答える.


「幇間は馬鹿にされるだけだから,つまらないんですよ.わたしは,他人を笑わせ,他人に笑われ,それで最後にちょっぴり奉られもしてみたいんです.中ノ町や深川あたりへ行ったとき,“あら先生,こんどの絵草紙,読みました”なんて言われてみたい.幇間は軽んじられるだけで,この最後のひっくり返しがないからつまらない」


この台詞で描かれる栄次郎の性格は,単純と言えば単純であり,微笑ましいとすら言ってもいいかもしれない.そして,引き続いて,栄次郎を戯作者にしようとして起こる一連の騒動は,表面的には単なるドタバタ劇のようにも見える.しかし,栄次郎のひたむきな思いは,その一直線さゆえに,これらの騒動にある種の凄みのような色合いを次第に帯びさせていくことになるのである.


このような,大げさに言えば悲劇的といってもいいような色合いは,この小説の語り手である「おれ」によって,より端的に述懐される:


むろん,栄次郎だってそれが天下第一の戯作者への道であると,本気で信じてやしないだろう.半分くらい本気かも知れないが,机の上が血の池地獄で,座る座布団が針の山,おまえにものを書く才などあるものか.と呵々大笑する閻魔の声を頭のどこかで聞きながら,脂汗流して,地獄這いずり廻って,これ以上は自分にはできない,という作を仕上げるほかに,王道がないことぐらい承知しているはずだ.栄次郎がそれをせずに絵草紙の主人公もどきに,先輩戯作者の辿ったうわべのところだけを真似しているのは,ひょっとしたら,こっちの道も地獄へ通じていると,信じているからではないのか.他人をどこまでも笑わせようとするとどっちみち地獄へ行きつくのだろう.地獄の入口は三途の川ばかりと限ったわけではない.


若干韜晦気味に書かれてはいるものの,これは,当時すでに放送作家・脚本家として確固たる地位を築いていた井上ひさしの,忌憚のない実感でもあったろう.後に遅筆堂とすら号するようになったとりわけ遅筆な井上ひさしは,上記のような苦しみを特に強く抱えていたのかもしれない.そして,ここで描かれている苦しみは,ものづくり一般に共通するものであり,必然的に狂気のようなものを伴うように感じる.それは何故かといえば,創作とは,今まで連続的であったものに不連続性をもたらすものだからではないか.それは,単純なアナロジーで言うならば,まさに電子が励起を起こすかのような状況であり,エネルギーが必要である.創作においては,ある種の狂気としか言いようがないものだけが,連続なものに不連続性をもたらす,そのエネルギーになりうるような気がするのだ.そしてそれは,著者の言うように,地獄に通じる道でもある.ではなぜ,人はそのような道を進まなければならないのか.後に「おれ」が述べるように,それは人間の業としか言いようがないのである.


こうして見てくると,栄次郎が井上ひさしの分身であるかのように思われるかもしれないが,それはおそらく正しくないだろう.ただ,この小説を通して,当時の井上ひさしの人間は浮かび上がってくるように思える.それはまず,時に冷や冷やさせられるような,勢いのあるまっすぐさのようなものである.これは栄次郎の性格を言ってるのではなく,作品全体を通して感じられるものである.そのストレートな勢いは,時に文学的な技術や陰影を離れて,稚拙さすら感じさせることがある.一言で言ってしまえば,若さということだろう.当時38歳であった著者を若いというのは失礼かもしれないが,とにかくその気力と体力の横溢を感じさせるのである.そしてまた,井上ひさしの作品に共通する,ある種の暗さである.いずれにせよ,後の井上ひさしの豊饒な作品群の萌芽はすでにこの小説に見て取ることができる.


こういった思いは,この作品を初めて読んだ大学生のころには感じなかったような気がする.少なくとも,大学生の私は,もの作りの喜びと苦しみは分かっていなかった (今でも分かってないかもしれないが).また,この小説を書いた当時の井上ひさしの若さのようなものも,この作品を初めて読んだ時の私には感じられなかっただろう.若いときには他人の若さなどには気づかないものである.そのようなことを考えながらこの小説を読み返したとき,自分も大学生のころからは遠いところに来てしまったことを実感したのである.




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