頭の良さについて

ゴールデンウィークにたまったブックマークを少しずつ消化している.その中で,頭が良くなるための方法論等に関する記事をいくつか見かけた.大変な数のブックマークがついてる.現代のような知識社会で生き残るためには,頭がいいことは一つの重要な条件であるから,頭の良さということは多くの人にとって切実であるということだろう.では,そもそも,頭がいいということはどういうことだろうか.これについてぼんやりと考えた内容をここに書いてみたい.我ながら散漫な内容ではあるけれども,今後また考えていくときの材料にはなるだろう.


頭がいいということを定義することは難しいだろう.そこで,迂遠ではあるが,分かりやすく考えるために,その人のアウトプットの質と量から,頭の良さということについて考えてみる.一般的には,そのアウトプットの質が高いということが,頭のよさに直結するように思われるのではないだろうか.だが,私は,実はその量こそが頭の良さの一つの本質ではないかと思えるのである.


たとえば,研究を例に取ってみる.少なくとも科学的分野では,研究の質と量というものは比較的分かりやすいといえる.研究の質とは,たとえば斬新なアイディアに満ちているかということであり,一方,研究の量とは,論文数やプロジェクトの成果物で計ることができる.もちろんそれは単純に過ぎるというそしりは免れないだろうが,話を進めてみる.


そうすると,一人の研究者が行う研究の質と量の組み合わせは,(1)質は高く,量も多い,(2)質は高いが量は少ない,(3)質は低いが量は多い,(4)質も低く,量も少ない,という4通りが考えられる.


ここで,ケース(1),(3),(4)は自然に受け入れられるであろうが,問題はケース(2)である.私の感覚では,このケース(2)の割合が非常に少ないように思われるのだ.優れた研究成果を出す研究者は,その成果の量も圧倒的に多い.優れた研究を年をおいて散発的に発表するようなケースは,ないとは言わないが,稀であるように思われる.確かな根拠とは言えないが,このことが,量というものが,いわゆる頭の良さということに直結している一つの証拠のように思われるのだ.


これは,研究だけに限った話ではない.すぐれた研究者というのは,研究以外で,学会運営や政府関係の仕事,もちろん大学や会社の運営等,膨大な雑用がふりかかってくる.そして,彼らに共通するのは,その仕事の速さである.その大量の仕事を,圧倒的な速度でこなしている.一方で,自分のことを棚に上げて言えば,雑用が多くて研究や勉強の時間がないという愚痴をこぼす研究者は,たいてい大した成果を上げていない.それが能力ということだろうと言われればそれまでなのであるが,ここで言いたいのは,優れた研究者には,圧倒されるようなエネルギーが共通しているということなのである.知性の本質は,質も重要ではあるが,どうも,量あるいはエネルギーということではないかと思われるのだ.


もちろん,頭の良さの定義次第でどうとでも言えることではあるし,上記の議論も穴だらけであることは認めざるを得ない.しかし,頭の良さというのは,人間のエネルギー,すなわち,内なるところからあふれ出すような圧力ということが,その本質に近いところにあるような気がしてならない.そして,議論の飛躍を恐れずに言えば,それは,人間が,与えられた環境で生き残る力そのものではないかというような気がするのである.


そのように考えてくれば,(一部の天才を除いて)我々一般的な人間が頭が良くなるための方法というのは,明らかなように思える.単純に言ってしまえば,人生を真摯に生きるということである.あたえられた環境で生き残るために全力を尽くすということである.卑近な例をあげれば,たとえば家事であれば,炊事洗濯掃除などでも,よりよいものにするために工夫を凝らす,真面目に取り組む,まずはそれが重要であるように思える.


もちろん,ここで言うような頭の良さというものは,世間一般で考えられている頭の良さの概念とは違うものかもしれない.しかし,上で書いたような,人生を真摯に生きる,生き残るための努力を惜しまない,ということ無くしては,頭のよさというものはありえないような気がするのである.ライフハック的な頭が良くなるための方法論というのは,その次の優先度ではないだろうか.


コメント

このブログの人気の投稿

LaTeX メモ - 数式における「|」 (縦線, vertical bar)の扱い(その2)

人間はどんなところでも,どんな時でも何歳からでも学ぶことができる

ブログを始めるにあたって - 継続は力

へんろう宿 (井伏鱒二)

イエスは地面に何を書いていたか