母の眼 (川端康成,「掌の小説」所収)

以前,掌の小説 (川端康成) というエントリを書いたのですが,それに対して以下のようなコメントをいただきました.

はじめまして、
あの、、、『掌の小説』の中で母の眼という作品について聞きたいことがありまして、
何の意味かなかなか分かりませんね。ですので、あなたの考えがほしいんです。
たとえば、このタイトルはなぜ母の眼なのか。
最後の部分に書いてる「子守女の顔に何と明るい喜びだ。」ここの意味は何だと思ってますか。 
https://dayinthelife-web.blogspot.com/2005/08/blog-post_7.html 



私は特に教養があるわけでもなく,書評のようなものをこのブログに書いてはいますが,その解釈についても浅かったり間違ってたりするところが多々あるのではないかと思っています.しかし,せっかくのお尋ねでもありますし,自分の考えを書いてみることにしました.少し長くなってしまったので,コメント欄に書くのではなく,独立したエントリにしてみます.

この小説のキーとなるのは,「美しい子守女」と「母の眼」ということではないかと思います.まず子守女についてですが,少なくとも戦前までは,貧しい家の年端もいかない女の子が,口減らしやお金を稼ぐために,子守女として奉公に出ることがよくあったようです.このような,子守女としての境遇はつらいものだったようで,子守唄のメロディに悲しいものが多いのは,そのためではないかと思っています.そのあたりの事情については,ざっと検索してみたところでは,たとえば以下のページに詳しいようです.


子守唄にみる幼児労働

五木の子守唄と子守唄の里


この小説の主人公である子守女も,このような境遇だったと思われます.

ただ,彼女は美しかった.そして,自分の美しさを十分自覚していたが故に,彼女は大きな自尊心を持っていたのだと思われます.これは,この子守女は,勤め先の宿屋の女中など相手にしなかったところからも見て取れます.彼女がおかれた境遇も,かえってその自尊心を強めることになったのかもしれません.

そして,この子守女の自尊心を満たす手段だったのが,眼の病気を持った母親を自動車に乗せて病院に通わせることだったのではないでしょうか.本文中にもあるように,まだ乗合馬車が庶民の交通手段であったような時代です.自動車はほとんど普及しておらず,母親を自動車で病院に通わせることは,大変な費用がかかったことでしょう.それ故にこそ,子守女の自尊心は満たされていたのだと思います.ただ,この費用は,彼女が盗んだ金品から出ていたのでした.結局この盗みのために,子守女はお払い箱となってしまいます.

そして,お問い合わせの,この小説の最後の部分にある「子守女の顔に何と明るい喜びだ」という場面につながっていきます.この小説の語り手である「私」は,子守女が働いていた宿屋に泊っていたのですが,彼女がそこを首になってからしばらくして,「私」も帰ることになりました.乗合馬車に乗って「私」が停車場に向かっているとき,それを自動車が追いかけてきます.追いついた自動車から下りてきたのは,あの子守女でした.この場面を以下に引用します.


着飾った子守女が自動車を下りて,馬車に飛びついて来ながら,喜びの叫び声をあげた.
「まあ,嬉しい.お会いしましたわ.私お母さんと町のお医者さまへ参りますの.可哀想にお母さん片眼になりそうなの.こちらの自動車に乗って行きましょう.停車場までお送りしますわ.いいでしょう.」
私は馬車を飛び下りた.子守女の顔に何と明るい喜びだ.


偶然にしてはできすぎたタイミングです.子守女は,「私」が帰るということをどこかで聞き及び,上記のような行動に打って出たのかもしれません.もしそうであるならば,彼女は,「私」に対してほのかな恋心のような感情を抱いていたのかもしれません.「私」が,彼女の盗みをかばってあげたところから,そのような感情が芽生えたとも考えられます.

そういった推測が間違っていたとしても,少なくとも,子守女は,母親を自動車で病院に連れていくという,彼女が誇りに思っている行動を,「私」にアピールすることができたのでした.それは,彼女の自尊心をどんなに満足させたことでしょうか.母親の眼が潰れてしまうかもしれないという悲惨な状況なのにも関わらず,いやそれ故にこそ,彼女の笑顔は美しく輝くようなものであったに違いないと思えるのです.人間は哀しい.もっと踏み込んで言えば,女性は哀しい.その上で,「私」を引きこむような,美しい笑顔だったのでしょう.

そして,このわずか2ページと1行の短い小説は,以下のように終わりを迎えます.


自動車の窓に,母の眼を蔽(おお)うた包帯が白く見えていた.


ここで,題名にもある「母の眼」がクローズアップされます.母の眼という存在が,大きなものになってくるように感じられます.このとき,私はいろいろと考えされられてしまうのです.すなわち,母の眼は,娘である子守女の罪を見つめている存在の象徴なのではないか?

したがって,母の眼が片眼になってしまうということは,その娘の罪を引き受けたからだというような解釈も可能であるかもしれません.ただ,私自身は,そのような解釈には賛成できないのです.私は,この母の眼に,ヨハネによる福音書の第9章の有名な言葉を思い出すのです.


ヨハネ傳(ヨハネによる福音書)第9章
1. イエス途往(みちゆ)くとき,生れながらの盲人(めしひ)を見給(みたま)ひたれば, 2. 弟子たち問ひて言ふ,「ラビ,この人の盲目(めしひ)にて生れしは,誰の罪によるぞ,己(おのれ)のか,親のか」 3. イエス答へ給ふ 「この人の罪にも親の罪にもあらず,ただ彼の上に神の業(わざ)の顕(あらは)れん為なり


この言葉は,その意味するところは大変重いものですが,聖書で,私がよく思い出す言葉の一つです.この言葉を読むと,いつも,頭が下がるような,胸が打たれるような思いがいたします.この小説の著者である川端康成も,おそらくは上記のような思いがあったのではないかと思っています.大げさに言えば,母の眼に,神の御わざのようなものを感じてしまうのです.




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