詩集「北国」 (井上靖)

前のエントリ で触れた,珠玉の作品集について.ここでは,井上靖の詩集「北国」について書いてみたい.

井上靖についてはもう説明するまでもあるまい.「あすなろ物語」「しろばんば」などの自伝的な作品,「天平の甍」「楼蘭」「蒼き狼」「敦煌」などの歴史作品,その他「氷壁」など,誰しも一度は少なくともその題名は聞いたことがあるであろう,数多くの名作を生み出した.また,映画やドラマになった作品も多い.


この井上靖の作品の中で,私が最も大きな感銘を受けた作品が,詩集「北国」である.私が持っているのは新潮文庫の文庫本であるが,もう絶版になっているようで,入手しづらいかもしれない.


「北国」は,38篇の詩集を収めた,井上靖の最初の詩集である.それぞれの作品は,詩といっても,散文の形式をとっており,近代詩の系譜の中でも独自のポジションを占めているのではなかろうか.これらの詩に共通して感じられるのは,ある広がりをもった静謐な空間である.そしてこの空間は,作者の研ぎ澄まされた詩情,抒情,愛と哀しみに満ち満ちている.またそれらは,非常に豊かなイメージをかきたてるものが多いものの,絵画でも音楽でもない.やはり,詩としか言いようのない空間である.これらの詩を介して,我々は作者の魂を感じ取ることが出来るのである.


38編の詩はそれぞれまさに珠玉としかいいようがないが,その中でも,特にいくつかの詩をここでは紹介したい.例によって内容に一部触れるので,未読の方は注意.



  • 「海辺」…国語の教科書にも載っている有名な作品.青春への嫉妬と憧憬.


  • 「愛情」…5歳の子供の相手をするときに突然突き上げてきた,烈しい愛情と深い寂寥.


  • 「生涯」…「若いころはどうにかして黄色の菊の大輪を夜空に打揚げんものと,寝食を忘れたものです.漆黒の闇の中に一瞬ぱあつと明るく開いて消える黄菊の幻影を,幾度夢に見て床の上に跳び起きたことでせう.しかし,結局,花火で黄いろい色は出せませんでしたよ.」 一生を花火に捧げた老花火師の言葉.人生なるものへの畏れ.


  • 「流星」…「私はいつまでも砂丘の上に横たわつてゐた.自分こそ,やがて落ちてくるその星を己が額に受けとめる,地上におけるただ一人の人間であることを,私はいささかも疑はなかつた.」 青春の情熱,矜持,孤高.それらは刹那に輝く,本来孤独なるもの.それゆえに哀しく美しい.


  • 「高原」…いのちの悲しみ.


  • 「落日」…匈奴の死者の弔い方.駱駝の咆哮は,まさに死者への慟哭に他ならない.これほど哀切極まりない死者への弔いが他にあろうか.


  • 「二月」…父と私を捨てた母.少年の私をとりまく,世界の底にある敵意.だが,その敵意が本当にあるのかすら私には分からない.



井上靖は一般的には小説家として語られることが多いが,その小説は詩的,抒情的で,本質は詩人なのではないかと思う.室生犀星の小説が,たとえ小説であっても,それはやはり詩人の書いた詩に他ならないかのように.このように感じるのは,私が余りにこの詩集に傾倒しているからであろうか.



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