親子ということ

今年最後のエントリとして,今年後半に気になったニュースについて,思ったことを書いてみたい.今回のエントリは,主に私自身のために書くものであり,なおかつ,個人的な詳細については触れないつもりなので,分かりにくいところがあるかもしれず,その点はどうかご容赦されたい.それでも,何か伝わるところがあれば幸いです.



11月の終わりから2週間ほどで,以下の二件の記事があった:


新生児取り違え:60歳男性「生まれた日に時間を戻して」

毎日新聞 2013年11月27日
http://mainichi.jp/select/news/20131128k0000m040116000c.html


「違う人生があったとも思う。生まれた日に時間を戻してほしい」。東京都墨田区の病院で60年前、出生直後に別の新生児と取り違えられ、東京地裁で病院側の賠償責任を認める判決を勝ち取った都内の男性(60)が27日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、揺れる思いを吐露した。


 男性は1953年3月に出生。13分後に生まれた別の新生児と、産湯につかった後に取り違えられ、実母とは違う女性の元に渡された。育った家庭では、2歳の時に戸籍上の父親が死去。育ての母親は生活保護を受けながら、男性を含む3人の子を育てた。6畳アパートで家電製品一つない生活だったが「母親は特に(末っ子の)私をかわいがった」と振り返る。「この世に生を受けたのは実の親のおかげ。育ての親も精いっぱいかわいがってくれた」。既に他界した4人の親への感謝を口にした。


「お父さんは僕しかおらん」 性別変更の男性、闘い4年

朝日新聞デジタル 2013年12月12日
http://www.asahi.com/articles/TKY201312120003.html


「親子を結ぶのは、血のつながりだけではない」。そんな訴えが、最高裁に認められた。性同一性障害で女性から性別を変更した男性に、第三者からの精子提供で生まれた子との親子関係を認める決定が示された。11日、男性に届いた知らせは、家族に笑顔とうれし涙をもたらした。


いずれも,重いニュースである.そして,親子との血のつながりと,その愛について考えさせられた.



以前,親子の間の愛ということ,特に,血のつながらない親子の愛について,いろいろと考えたことがあった.


そのようなとき,芥川龍之介の短編である「捨児」という作品のことをよく思い出した.この小説の概略は,以下のようなものである.


明治22年の秋,信行寺という寺に,一人の男の子の捨て子があった.その男の子は勇之助と名づけられ,その寺の住職によって,わが子のように育てられることになった.それから5年後,品のよい三十四,五の女性が寺に現れ,自分が勇之助の母親であることを告白する.そして,勇之助を引き取ったその女性は,ほとんど寝食さえ忘れるくらい勇之助に尽くし,育ててくれたのであった.


ところが,その女性の死後,物語はある意外な展開を見せる.そして,親子ということ,その血のつながり,親子の愛ということについて,読者の胸を打たずにはおかない結末を迎えるのである.


この作品は,短編というよりもむしろ掌編というほどの短さであり,青空文庫でも読めるので,未読の方はぜひ読んでいただきたい.


私はこの短編がとても好きだ.芥川というと,鼻,杜子春,地獄変といった有名作品のせいで,歴史物の印象が強いと思うのだが,どちらかというと印象に残るのは,こういった市井のいわば人情物のように思う.



そして,この作品を読んだ後,また改めて思うのである.親子の血のつながり,そしてその間の情愛というものはどういったものであるだろうか.はっきり言えば,血のつながらない親子の間に愛というものは存在しうるのだろうか.


これはもちろん,軽々には答えられない問題である.そこで,上記「捨児」など,様々な文学作品のテーマとなった.そのような作品として,私の愛する小説の一つである,「レ・ミゼラブル」についてだけ,簡単に触れてみたい.


レ・ミゼラブルは,キリスト教的な価値観のもと,ジャン・バルジャンをはじめとする登場人物が,光ある道を歩んでいく物語である.その物語の中で,最も感動的なエピソードは何だろうか.もちろんそれは読者によって違うだろうが,私は,その一つとして,ジャン・バルジャンが,コゼットを自らの子として育てていったことを挙げてみたい.


以前このブログで書いたように(参照),コゼットは,当時まだ幼少の娘であったが,テナルディエ一家に預けられ,そこで虐げられながら,育っていた.一方,ジャン・バルジャンもまた,それまで虐げられた人生を送っており,人に愛されることもなく,また人を愛することもなかった.二人は,愛というものを知らなかったのである.


ジャン・バルジャンとコゼットには,血のつながりはない.しかし,ジャン・バルジャンは,あるきっかけから,コゼットを引き取り育てることを決心した.こうして,二つの不幸な魂が出会ったのだった.そしてそこに,愛が芽生えたのである.ジャン・バルジャンは,今までの人生で与えられることのなかった愛がそこで開花したかのように,全身全霊の愛をもって,コゼットを愛し,父親として母親としてコゼットを育てていく.そして,そうしたジャンバルジャンを,コゼットもまた愛したのであった.




血のつながらない親子の間にある愛について,私は,芥川の「捨児」や,ジャン・バルジャンの物語が,真実をついているように思う.言い換えると,私は以下のように考えているのである.


血のつながりのある親と子の愛は,人の愛である.そして,血のつながりのない親子の愛や,男女の愛は,神から与えられた愛であるといえるのではないだろうか.どちらが優れているというのではなく,またどちらがより重要であるということを言っているのではない.人間は,心の中にどちらの愛も持っているということを言いたいのである.


人によってはそれは,説得力のないような話に思われるかもしれない.しかし私は,自ら積み重ねてきた年月の重みによって,自信を持ってそう言えるのである.そしてそれは,私自身がこの世に生を受けてよかったと信じられる,数少ない一つの理由につながっていくのである.





 

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