中谷治宇二郎と,人が生きているということ

前回のエントリでは,中谷宇吉郎のことについて書いた.宇吉郎には,治宇二郎(じうじろう)という弟がいた.中谷宇吉郎は有名であろうが,その弟の治宇二郎については,ネットではおそらくほとんど触れられていないのではないかと思うので,今回のエントリでは,治宇二郎のことと,それにまつわる思いについて書いてみたい.


中谷治宇二郎とその人となりについては,兄宇吉郎の,「一人の無名作家」という短いエッセーをいつも思い出す.


昭和十年発行の岩波版「芥川竜之介全集」第八巻に「一人の無名作家」という短文がある.

 七,八年前,北国の方の同人雑誌を送って来たことがあるが,その中の「平家物語」に主題をとった小説が,印象に残っている.「今はその青年の名も覚えておりませんが,その作品が非常によかったので,今でもそのテーマは覚えているのですが,その青年のことは,折々今でも思い出します.才を抱いて,埋もれてゆく人は,外にも沢山あることと思います」と最後に書いてある.

 田舎の同人雑誌に出た無名の青年の作品を,十年近くも覚えていて,こういう文章を書くというのは,芥川にしては,珍しいことだろうと思う.この文章の中で,芥川はその小説の内容を詳しく紹介しているので分ったのであるが,この青年というのは,私の弟治宇二郎のことであった.


(中略)


その後私(注:中谷宇吉郎)が東大の物理科へ入ることになって,一家は東京へ引き揚げて来た.そして弟も文学青年を卒業して,鳥居竜蔵博士の助手になって,考古学の勉強を始めた.文学修業と,一年ばかり東洋大学でインド哲学をやったのが,役に立ったものと見えて,考古学の方法論の方で,大分いい仕事をした.

 それから五年くらいして,私がパリにいたころ,弟がひょっくりパリへやって来た.昭和四年の夏のことである.本を書いて,その印税で,シベリア鉄道の切符だけ買って,無分別に出かけて来たのである.在仏三年,大分たくさん論文を書いたが,病を得て,日本へ帰って死んだ.芥川もその間に自殺していたので,二人はとうとう会う機会がなかった.


中谷治宇二郎は34歳,そして芥川も35歳という年齢で,夭折したのであった.この「一人の無名作家」という作品は短い文章ではあるが,芥川及び治宇二郎の人となりや,また,それぞれの人生について,さまざまな思いをかきたてずにはおかない.



このような短い人生だったのにも関わらず,芥川の人生と治宇二郎の人生が思いがけずも交差したように,運命はまた,治宇二郎に意外な人を巡りあわせるのである.治宇二郎は,パリ在住のとき,同じくパリに留学していた,岡潔先生(多変数解析関数論で有名な数学者)と知り合い,親友となったのであった.


治宇二郎と岡先生の交際については,岡先生の名随筆「春宵十話」にある,「フランス留学と親友」という短編の記述が胸を打つので,ここに引用してみたい.


フランスでの私(注:岡潔先生)の最大の体験は,中谷宇吉郎さんの弟の中谷治宇二郎さんと知り合ったことだ.(中略)私たちは音叉が共鳴しあうように語り合った.また,一緒に石鏃(せきぞく)を掘りに行ったり,カルナックの巨石文化の遺跡を見に行ったりした.もっとも私は巨石文化はあまり好きになれないので,せっかく行っても,その巨石にもたれて数学の本を読みふけっていたが.

(中略)

私が洋行で得たものは,日本から離れて時間と空間を超越できたことと,親友とはどんなものかを知ったことである.私は治宇二郎さんと一緒にいたいばっかりに留学期間を一年延ばしてもらった.

(中略)

私はこの人が生きているうちはただ一緒でいるだけで満足し,あまり数学の勉強には身が入らなかった.


治宇二郎という人は,ここまで人をひきつける性格の持ち主だったのだろう.岡先生は,その大変個性的なキャラクターでも有名であるが,そういった性格故に,親友として認めた治宇二郎とは深い精神的なつながりがあったことを確信せざるを得ない.



このように,いくつかの文章を読んでいくだけで,読者には,中谷治宇二郎の,さまざまなイメージが思い浮かんでくるに違いない.私にとっては,治宇二郎は,文学や考古学にその短い人生をささげた,ロマンティックで情熱的なイメージを思い起こさせる.これは,兄の宇吉郎が雪の研究に生涯をささげたように,中谷家の人間の共通する性格なのかもしれない.


そして,そのように考えている間は,34歳という若さで亡くなった治宇二郎も,私の心の中によみがえるのである.それは,治宇二郎が,今でも生きているということに他ならないのではなかろうか.


こうして私は,芥川龍之介の「澄江堂雑記」(芥川の号は澄江堂主人)にある,「後世」という短い作品を連想してしまうのである.


 ときどき私は二十年の後(のち),あるいは五十年の後,あるいはさらに百年の後,私の存在さえ知らない時代が来るということを想像する.そのとき私の作品集は,うずだかい埃(ほこり)に埋(うず)もれて,神田あたりの古本屋の棚の隅に,むなしく読者を待っているであろう.いや,ことによったらどこかの図書館にたった一冊残ったまま,無残な紙魚(しぎょ)の餌となって,文字さえ読めないように破れ果てているかも知れない.しかし――

 私はしかしと思う.

 しかし誰かが偶然私の作品集を見つけ出して,その中の短い一篇を,あるいはその一篇の中の何行かを読むということがないであろうか.さらに虫のいい望みをいえば,その一篇なり何行かなりが,私の知らない未来の読者に多少にもせよ美しい夢を見せるということがないであろうか.

 私は知己を百代の後に待とうとしているものではない.だから私はこういう私の想像がいかに私の信ずるところと矛盾しているかも承知している.

 けれども私はなお想像する.落莫たる百代の後にあたって私の作品集を手にすべき一人の読者のあることを.そうしてその読者の心の前へ,朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のあることを.

 私は私の愚を嗤笑(ししょう)すべき賢達(けんたつ)の士のあるのを心得ている.が,私自身といえども私の愚を笑う点にかけてはあえて人後に落ちようとは思っていない.ただ,私は私の愚を笑いながら,しかもその愚に恋恋たる私自身の意気地なさを憐れまずにはいられないのである.あるいは私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはいられないのである.


私は,この文章を読むと,いつも,深い感動の念を抑えることが出来ない.ここで指摘されているように,こうした思いは誰しも一度は思ったことがあるのではなかろうか.そして,叶わぬこととは知りながら,芥川の死後90年となった現在でも,芥川の作品を読み,感銘を受けている私のような読者がいることを,どうかして芥川に伝えることが出来たなら,といつも思うのである.



このように,中谷治宇二郎や芥川龍之介のことを私が考えているとき,彼らは私の中に生きているのである.結局,人が生きているということは,そういうことではなかろうか.もちろん,治宇二郎や芥川は,普通の意味では,生きてはいない.しかしながら,いま生きている人であっても,それを認識できるのは,その人のことを心に認識している人がいる場合だけである.治宇二郎や芥川と,いま生きている人との違いは,話そうと思えば話せるか,それだけの違いにすぎないのである.


したがって,本質的には,その人を思い浮かべる人がいたとき,その人は生きているといえるのではなかろうか.だから私の中では,治宇二郎や芥川はいつまでも生きている.そして,そのように彼らのことを思い浮かべる人がいるうちは,治宇二郎や芥川はいつまでも生きているのである.そしてまた,私も,そのような仕事や文章を残して,私が死んだ後も,それを目にする人がいることを,夢見たりするのである.




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