キリマンジャロの雪 (ヘミングウェイ)

翻訳調がどうも好きではないので,私はあまり外国文学を読まない.それでも何人かの外国人作家の作品についてはよく読んだ.ヘミングウェイはその一人である.ただ,今となってはその内容もあまり覚えてはおらず,長編以外で記憶に残っているのは,「インディアンの村」,「フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯」,そして今日エントリにする,「キリマンジャロの雪」くらいである.

ヘミングウェイは,おそらくはほとんどの方が,少なくとも名前くらいは聞いたことのある作家だろう.ノーベル文学賞を受賞した,アメリカの代表的な作家であり,「老人と海」などは国語教科書にも採録されている.その作品は何度か映画化され,たとえば「誰が為に鐘は鳴る」のイングリッド・バーグマンは,奇跡のような美しさであった.

パパ・ヘミングウェイとも呼ばれ,マーク・トウェインなどとともに,おそらくアメリカで最も愛された国民的作家の一人ではないだろうか.しかし,その生涯が果たして幸せだったどうかは分からない.

ヘミングウェイは,最期はうつ病に悩み,猟銃で自殺した.これはヘミングウェイの生涯も原因となっているのであろうが,その父,妹,弟もうつ病で自殺したということであるから,遺伝的なものもあったのではないか.

そのせいもあってか,ヘミングウェイの作品には,死と,虚無のにおいがする.特にそれを強く感じる作品の一つが,「キリマンジャロの雪」なのである.

「キリマンジャロの雪」は,有名な以下のエピグラフで始まる.

キリマンジャロは標高6007メートル,雪に覆われた山で,アフリカの最高峰と言われている.その西の山頂は,マサイ語で “ヌガイエ・ヌガイ”,神の家と呼ばれているが,その近くに,干(ひ)からびて凍りついた,一頭の豹の屍が横たわっている.それほど高いところで,豹が何を求めていたのか,説明し得た者は一人もいない.

キリマンジャロという山の名前はこの作品で有名になったという.特にこの冒頭の一節は,鮮烈なまでに視覚的である.豹が,生きるものとてない雪のキリマンジャロを,一頭で,山頂に向かって登っていく.その姿は厳しいまでに寒く,孤独である.そして,神の家と呼ばれる山頂にたどりついた豹は,そのまま凍えて死んだのであった.

この豹は,アフリカに生きているのにも関わらず,何を求めて雪深いキリマンジャロの山頂に,それも一頭で,向かっていったのか.


「キリマンジャロの雪」の主人公は,おそらくヘミングウェイ自身がモデルとなっているであろう,小説家ハリーである.ハリーは,その妻ヘレンと,狩猟のためにアフリカを訪れていた.しかしながら,ハリーは,事故が原因でその右足が壊疽を起こしてしまい,死の直前にあったのだ.

死の床にあるハリーは,自らの過去に思いをはせる.そこには,小説にしたいと構想していた題材がいくつもあった.しかし,自分にはそれを小説にする時間も力ももはや残されていないだろう.怒りでもなく,後悔でもなく,諦念のような思いが,多重奏のように,ハリーの胸に押し迫る.

そして最期に,ハリーはキリマンジャロの夢を見る.全世界のように広く,大きく,高々と光り輝くキリマンジャロの頂上を夢に見て,ハリーは,自分がそこに向かいつつあることを悟ったのである.


最初にこの作品を読んだとき,私は,冒頭にある豹を,美しくそして孤高である存在のように感じた.ハリーも,自らの存在をこの豹になぞらえていたのではないか.そう考えると,神の家であるキリマンジャロの山頂は,何か至高の存在のように思える.小説家として中途で挫折したとしても,神のある高みに向かっていったハリーは,たとえそこで屍になったとしても,救われたのではないだろうか.


だが,中年となった私が改めてこの小説を読み返してみると,また別の思いも去来するのである.そしてそれは,決して明るいものではない.

最初の時点に戻って考えてみよう.そもそも,豹はなぜ一頭で,雪に覆われたキリマンジャロの頂上に向かっていったのか?

端的には,餌を探して登っていったとしか考えられないだろう.しかし,雪のキリマンジャロの山頂にそんな餌などありはしない.それなのに,なぜ6000メートルもある山の頂上を目指して,気温も低いのに,のぼっていったのか.

私は,以下のように考える.豹は,引き返すことが恐ろしかったのではないか.山頂までたどってきた長い道のりを途中で引き返すことは,過去の自分を否定することに他ならない.その道のりは,長ければ長いほど,大きな呪いとなって,豹の行動を縛っていったのである.そう考えると,豹は決して孤高の存在などではなく,過去を捨てることができず,新たな道を試すことができなかった,むしろ勇気のない,愚かな存在のようにも思えるのである.


私は,仕事をやめたいと思ったことは一度もない.しかし,過去に一度だけ,プライベートをすべて捨てて,まっさらになってやり直したいと思ったことがあった.

しかし,私にはそれはできなかった.今まで積み上げてきた生活を壊すことはできなかったし,何より,そのせいで壊れてしまう人のことを,考えることすら恐ろしかった.私は,勇気のない,愚かな豹のようだったのか.

特に若いころ,人生には無限の選択肢があるように思える.しかし,中年となった今から思えば,人生にはそれほど多くの選択肢はなく,自分だけで選んだと信じている選択肢すら,おそらくもっと大きな存在によって,決められているのではないか.結果として,自分の人生は,必然の積み重ねだったかもしれない.それは,死ぬと分かっていながら,引き返す勇気もなく山頂に向かっていく,愚かな豹の姿とかぶるかもしれない.だが,たとえそうであっても,私は,自分の選択を,愛おしいようにも思っているのである.

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