「銀と金」と「樽金王」

何年か前に Kindle を買ってから,本当に漫画をよく読むようになりました.漫画だけでも,Kindle で1000冊以上買ってます.こんなに大量に漫画を買ってしまった大きな原因は,やはり Amazon の[まとめ買い]というボタンのせいでしょう.このボタンは,まさに悪魔の発明ですよ.…と Amazon のせいにしてみたいところですが,スマホゲームに大金をつぎ込むユーザを笑ってはいられない状況です.


Kindleが登場する前は,本棚にスペースがないので(紙の)漫画を購入することはほとんどありませんでした.しかし,漫画そのものは嫌いではないどころか,大好きです.ですので,どうしても読みたい漫画は,以前でも,(電子書籍ではなく)紙の印刷物のものを購入していました.その中の一つに,福本伸行の漫画「銀と金」があります.といっても,その漫画は引っ越しのときに捨ててしまって,新たに Kindle 本として買いなおしたのですが.


前置きが長くなりましたが,最近「銀と金」を Kindle で読み直していて,ふと思ったことがあるので,エントリにしてみたいと思います.


「銀と金」は,福本作品の中でも傑作の一つではないでしょうか.「銀と金」の主要人物は,平井銀二と森田鉄雄の二人です.銀二は「銀さん」とも呼ばれ,裏社会の大物であり,年配の人物として描かれています. 一方,森田は若輩であり,銀さんによって,裏社会で生きていくことを決意します.そして,銀(銀さん)を越える金(きん)と成り上がろうという野望を持つまでになるのです.


その「銀と金」の中で,以下のようなエピソードがあります.銀さんは,森田に対して,ある悪事を持ち掛けます.その報酬として,五千万円を森田に払おうというのです.銀さんは,森田の前に,五千万円分の札束を積み上げます.しかし森田は,銀さんの依頼の犯罪性ゆえに,それを引き受けることをためらいます.森田のためらいを見た銀さんは,報酬を五百万ずつ減らしていくのです.


銀さん曰く,決断が遅れる者は大成しない,報酬を減らすしかない,というのです.このあたりの心理描写や駆け引きは,福本作品らしく,読者をしびれさせるものがあります.


しかし一方で,森田にしてみれば,依頼の内容は変わらないのに,報酬が減らされるのでは,理不尽としか言いようがありません.


この話を読んで私が思い出すのが,夏目漱石「吾輩は猫である」にある,「樽金」のエピソードです.この「樽金」のエピソードが私には大変印象に残っているのです.「吾輩は猫である」にはそんなエピソードが満載なのですが.


樽金のエピソードとは,以下のようなものです.苦沙弥(くしゃみ)先生の細君は,安月給にも関わらず,大量の書籍(しょじゃく)を購入する夫への不満を,迷亭にこぼします.迷亭は,例によって,書籍代を減らせなどと適当なことを言います.細君は,それに反発するのです.


「どうして,そんなことをいったって,なかなか聞くものですか.この間などは貴様は学者の妻(さい)にも似合わん,毫(ごう)も書籍(しょじゃく)の価値を解しておらん,昔ローマにこういう話がある.後学のため聞いておけというんです」「そりゃ面白い,どんな話ですか」迷亭は乗気になる.細君に同情を表しているというよりむしろ好奇心に駆られている.「何でも昔ローマに樽金(たるきん)とかいう王様があって…」「樽金? 樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人(とうじん)の名なんかむずかしくて覚えられませんわ.何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな.ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」(中略)「その王様のところへ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかといったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高いことをいうんですって,あまり高いもんだから少し負けないかというとその女がいきなり九冊のうちの三冊を火にくべて焚(や)いてしまったそうです」「惜しいことをしましたな」「その本のうちには予言か何かほかで見られないことが書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冊が六冊になったから少しは価(ね)も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと,やはり元のとおり一文も引かないそうです,それは乱暴だというと,その女はまた三冊をとって火にくべたそうです.王様はまだ未練があったと見えて,余った三冊をいくらで売ると聞くと,やはり九冊分のねだんをくれというそうです.九冊が六冊になり,六冊が三冊になっても代価は,元のとおり一厘も引かない,それを引かせようとすると,残ってる三冊も火にくべるかもしれないので,王様はとうとう高いお金を出して焚けあまりの三冊を買ったんですって…どうだこの話で少しは書物のありがたみが分ったろう,どうだと力(りき)むのですけれど,私にゃ何がありがたいんだか,まあ分りませんね」と細君は一家の見識を立てて迷亭の返答を促す.


私は,「吾輩は猫である」にあるこの樽金のエピソードが,ぞくぞくするくらい好きなのですね.



よく知られているように,この「七代目樽金」は,王政ローマの7代目の王であるタルクィニウス・スペルブスのことですね.そして,上記の女は,シビュラと呼ばれる巫女で,九冊の予言書(神託書)は,シビュラの書(Wikipediaの項)として知られています.


この,タルクィニウスとシビュラの話は非常に示唆的で,いろいろなことを考えさせられます.では,その話は,どんな意味を持つのでしょうか?


普通に考えれば,苦沙弥先生の言うように,本というものの価値,貴重さ,かけがえのなさ,などを表すたとえ話と考えることができるでしょう.私も,「吾輩は猫である」の評論で,そんな主張を読んだことがあります.うろ覚えですが.


そういった解釈が普通なのでしょうが,私は,いわばベタな考えではありますが,このシビュラのエピソードは,我々一人ひとりの未来のことをたとえているような気もするのです.


タルクィニウス王がためらっているうちに,その未来の予言書は,三冊ごと焼かれていきます.つまり,その三冊に書かれていた未来は,なくなっていくわけです.これは,まさに我々の人生を象徴しているように思われます.


我々の人生では,年を取っていくうちに,人生の選択肢は減っていきます.これはまさに,シビュラの書が,三冊ごとに焼かれていく過程そのものではないでしょうか.


しかしだからと言って,我々の将来は,選択肢の減っていくごとにその価値が減っていくものでしょうか?


もちろん違います.確かに我々の将来は,年を取るにつれ次第に選択肢が減っていくものですが,それは,我々の過去に積み上げたものが,年をとるにつれ大きくなっていくからこそです.将来の選択肢が多かろうが少なかろうが,我々の将来は,かけがえのないものなのです.すなわち,我々の将来,それは未来といいかえていいと思いますが,それは,どんな年齢でも価値が変わらないもの,かけがえのなく貴重なものなのです.それこそが,シビュラの書が九冊から六冊へ,六冊から三冊に減っていっても,価値が変わらないということの意味なのではないでしょうか.



というようなことをよく考えます.そして,「銀と金」では, 時間がたつにつれ減っていくものがお金であり,福本漫画の価値観で,面白いところですね.


いつものように散漫ではありますが,そんなことを考えたりしました.



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