文人悪食 (嵐山光三郎)

今年最初のエントリは,嵐山光三郎の「文人悪食」について書いてみたい.なお,この本については以前このブログで少しだけ触れたことがある(参照: 嵐山光三郎の本).


「文人悪食」は,37人の小説家について,それぞれの人生や作品と,食とのかかわりをまとめたものである.そしてそれは,私自身の品性下劣を自覚したうえで言うと,とてつもなく面白い.


そもそも食とは,肉であれ植物であれ,生き物(あるいは生きていた物)を,かみ砕き消化して,自らの栄養とする行為である.そして人間以外のほとんどの種は,また別の生物の直接的な食物となる(もちろん,人間も死ねば微生物によって分解されるだろうが).つまり,食という営みは,特に人間にとって,業(ごう)のようなものといえるだろう.


その一方で,小説家は,人間の業を描くものである.その業は,闇とも深淵ともなるだろう.そこで小説家が,性格や人生の破綻者となることは必然的でもあり,多くの芸術家もまたそうであった.


したがって,小説家とその食というテーマは,二つの業が交差するものであるから,その相乗効果で途方もなく興味深いものとなる.まさにそれは,本書の読者も含めて,「悪食」とでも言うしかない.


そして本書を読めば,食が,人間と不可分な形で関わりあっていることが分かる.さらに言えば,食とは,人間の外部からものを取り込んで,人間を形作っていく行為である.したがって,食と性は,本質的に密接な関連がある.「文人悪食」を読めば,小説家の食という形で,時にはグロテスクなまでに,そのことに思い至るのである.


本書の具体的な内容については,たとえば,神経症で胃弱だった漱石がビスケットや砂糖付きピーナツといった消化に悪いものを好んだことや,まんじゅうをご飯にのせてお茶漬けにしたものを好んだ鴎外など,興味深いエピソードが枚挙にいとまがないほどである.そして,中でも,正岡子規,島崎藤村,高村光太郎,岡本かの子などのエピソードが白眉である.それらについては本書を読んでいただくとして,このエントリでは,特に,種田山頭火の話を紹介したい.


種田山頭火は,後半の人生を,行乞しながら自由律俳句を作り続けることに捧げた,漂泊の詩人というイメージがある.その山頭火の有名な句には,たとえば「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入つても分け入つても青い山」「鉄鉢の中へも霰」などがある.


しかしながら実際の山頭火は,大飯食らいで大酒飲みで,酒癖も悪く,また生活無能力者であった.山頭火が行乞行脚するときは,いくらのお布施を貰い,何を食べるかということばかり一日中考えていた.その日記には,食事のことばかり書いている.たとえば,昭和14年の山頭火「遍路日記」には,以下のような記述があるという.


11月2日「野良働きの人々がお弁当を食べている.私も食べる」.同3日「ふかしいもを買って食べ食べ歩いた,飯ばかりの飯も食べた」.同4日「宿のおばさんがお祭りの御馳走のお裾分けだといって,お鮨を一皿おせったいして下さった,おいしかった,私も今夜は二杯傾けた」.同5日「おべんとうはとても景色のよいところでいただいた」


こうした食事の記述が,えんえんと続いていく.そして,上記の日程で,「食べて寝て月がさしいる岩穴」という句が作られた.山頭火は,食も酒も,そして句も,人生をかけて味わったといえるだろう.


嵐山は,山頭火のことを以下のように評している.


人間は「食べなければ生きていけない」という動物としての性(さが)がある.その悲しい性もまた味である.酒も水も飯も行乞の果てが至上である.句もそうである.同じ句であっても,俳句仲間と楽しく吟行したときと,一人淋しく行乞したときでは味わいが違う.山頭火は,きわめつきの俳句中毒症患者であり,それは食に対しても同じであった.


しかしながら,山頭火には,その人生において,ぬぐいがたい虚無の感覚があったのではないだろうか.山頭火が9歳のとき,その母は自宅の井戸に投身自殺した.山頭火は,その死体に強い衝撃を受けたという.また,弟も自殺したのであった.さらに,山頭火自身も自殺未遂を起こした.そして,嵐山は以下のように語る.


(註: 山頭火が)自殺未遂の後は,食べ物の句に,カチンと固まった淋しい吐息の結晶がある.食べ物であるのに,味覚を超越した地平がある.


うどん供へて,母よ,わたくしもいただきまする


自殺した母の47回忌に詠んだ句である.山頭火は,この句一句を詠むために,ここまで生きてきたのではなかろうか.


山頭火が9歳のときその母が自殺したという事実,それから47年というあまりにも確かな重みをもった時間,そしてなおかつ忘れえぬ母への思い,そうしてたどりついた地平で,山頭火はこの句を詠むことができたのである.



本書「文人悪食」で,嵐山光三郎は,膨大な文献を渉猟して,作家と食に迫っていく.本書で描かれる作家と食の姿は,普通の人間の人生をさらに誇張したようなものであり,感動や共感,嫌悪,愚かさ,醜さなどのさまざまな思いを読者に想起させずにはおかない.本書の読者は,読後,ある種の酩酊感のようなものを感じるのではなかろうか.これは,山田風太郎の「人間臨終図卷」を読了したときの思いに通じるものがあるかもしれない.


いずれにせよ,本書で,小説家の食を追究していこうとする嵐山の姿は,鬼気迫るものがある.まさにそれは,文人の悪食を悪食している姿にも見まがうほどだ.すなわち,嵐山光三郎こそ,本書の最後に連なるべき作家なのかもしれない.



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