生きづらいと思ったとき

以下のような記事があった.


いろんなことを知りすぎて「人生」や「生きる意味」がわからなくなった時の考え方「楽観的なニヒリズム」 - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20170728-optimistic-nihilism/


なんだかねえ.


人が苦しんでいるとき,宇宙の広大さに比べれば人間なんてちっぽけな存在であるなどと思ったとして,それがその人に対して何の救いになるのだろうか.人が苦しんでいるとき,宇宙が大きかろうが小さかろうが,人間という存在がちっぽけであろうがなかろうが,そんなことはどうでもいいのである.いま苦しいのだ.いま救ってほしいのである.


だからといって,そのような苦しみに対する処方箋を私がもっているわけではない.そもそもそんな安直な救いがあれば,人は苦しまないだろう.


ただ,中年になるまでに生きてくると,そういう苦しみに対しても鈍感になってくる.さらに,そういう苦しみに対して,自分なりの,おそらく偽善的で欺瞞に満ちた対症療法も経験的に獲得していく.若いころは,そうした生き方は嫌だった.しかしそれでも人は生きていかなければならないし,また自分一人だけの存在でもなくなってくる.この地獄のような世の中を,とにかく生き延びていく,それこそがもっとも尊いことなのだとしみじみ思う.


そして,私はいつもマタイによる福音書の第6章を思い出す.


6:25 それだから,あなたがたに言っておく.何を食べようか,何を飲もうかと,自分の命のことで思いわずらい,何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな.命は食物にまさり,体は着物にまさるではないか.6:26 空の鳥を見るがよい.まくことも,刈ることもせず,倉に取りいれることもしない.それだのに,あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる.あなたがたは彼らよりも,はるかにすぐれた者ではないか.6:27 あなたがたのうち,誰が思いわずらったからといって,自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか.6:28 また,なぜ,着物のことで思いわずらうのか.野の花がどうして育っているか,考えてみるがよい.働きもせず,紡ぎもしない.6:29 しかし,あなたがたに言うが,栄華を極めたときのソロモンでさえ,この花の一つほどにも着飾ってはいなかった.6:30 今日は生えていて,明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ,神はこのように装って下さるのなら,あなたがたに,それ以上よくしてくださらないはずがあろうか.ああ,信仰の薄い者たちよ.6:31 だから,何を食べようか,何を飲もうか,あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな.6:32 これらのものはみな,異邦人が切に求めているものである.あなたがたの天の父は,これらのものが,ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである.6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい.そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう.6:34 だから,明日のことを思いわずらうな.明日のことは,明日自身が思いわずらうであろう.一日の苦労は,その日一日だけで十分である.



残念ながら,苦しんでいる人に対して,私ができることはほとんどないだろう.しかし,神の国や神の義を信じる必要はないが,それでも,この福音書の言葉をできれば多くの人に知ってもらいたいと思う.すなわち,私という存在は,たとえにわかには信じられなくても,本来,愛され,祝福される存在なのである.そう認識すること,それがひょっとしたら,一つの救いになることもあるかもしれないと思うからである.



コメント

このブログの人気の投稿

LaTeX メモ - 数式における「|」 (縦線, vertical bar)の扱い(その2)

人間はどんなところでも,どんな時でも何歳からでも学ぶことができる

ブログを始めるにあたって - 継続は力

へんろう宿 (井伏鱒二)

イエスは地面に何を書いていたか